上杉禅秀の乱と享徳の乱

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 戦国時代とは、一般に京都で将軍家後継問題に端を発し、管領家の後継争いも加わって始まった応仁の乱から一世紀にわたった全国的な動乱の時代を指している。しかし、関東では応仁の乱より一三年も早く勃発した享徳の乱から戦国時代に入ったという見方が有力である。しかも、享徳の乱よりさらに早く、上杉禅秀の乱ですでに、その後の関東の戦乱の原因を胚胎(はいたい)していたと考える研究者は多い。京都で将軍後継問題と管領家の内訌(ないこう)が引き起こした応仁の乱も、室町将軍と緊密な関係にあった関東管領上杉氏対鎌倉公方という構図が大きく関係している。すでに将軍義教と鎌倉公方持氏の対決にみられるように、幕府と鎌倉府が対抗的なところに、関東管領家の上杉氏が鎌倉公方と対立し、それが動乱の直接的な原因であったといえるだろう。鎌倉に置かれた関東府(鎌倉府)の主(あるじ)が鎌倉公方で、関東管領の地位には上杉氏が就いていたが、京都の将軍との関係で公方と関東管領が互いに対立的であった享徳の乱から続く長享の乱の原因は、公方と上杉氏の対立であることは間違いない。
 関東での戦国時代は、京都の応仁の乱より少し早い享徳の乱から始まったとされるが、それ以前の永享の乱に遡って、鎌倉公方と関東管領家の動きを追ってみよう。応永二十三年(一四一六)、足利持氏から関東管領犬懸(いぬがけ)上杉禅秀が管領を罷免され、禅秀と対立関係にあった山内(やまのうち)上杉憲基が管領職に任命されたことを契機に、禅秀は鎌倉府に反乱を起こした。室町将軍義持(一三八六~一四二八)も持氏と管領憲基を支持し、幕命を奉じた越後守護上杉氏と駿河守護今川氏の援軍が持氏側の有利を決定づけ、禅秀は鎌倉で自殺し反乱は鎮圧された。乱後、持氏は禅秀を支持した甲斐の武田氏や上野の新田岩松満純、常陸の山入(やまいり)佐竹など禅秀与党勢力の討伐を続けた。将軍義持の跡を継いだ義量が早世し、持氏は将軍職を望んだ。しかし籤(くじ)引きで還俗(げんぞく)将軍足利義教(一三九四~一四四一)が就任し、彼は鎌倉府に対して強圧的であった。関東管領は山内上杉憲実(一四一〇~一四六六)になっていたが、義教と持氏の対立のはざまで幕府に協調するよう持氏に進言を続けた憲実は、親幕府派とみなされて持氏との対立を深めた。持氏の嫡子義久が慣例を破って将軍義教の偏諱(へんき)を受けなかったことで憲実と持氏は決裂し、憲実は所領の上野へ下向したため、持氏から謀叛とみなされた。
 永享十年(一四三八)八月十四日、ついに持氏は憲実討伐の兵を発遣する。幕府は憲実支持を明確にして持氏討伐が決定された。幕府は、駿河守護の今川、甲斐守護の武田、信濃守護の小笠原、さらに奥州を統督する篠川(ささがわ)公方足利満直に朝廷に奏請した錦の御旗を下して持氏討伐の出兵を命じた。持氏は幕府の討伐対象というだけでなく、朝敵とされたのである。このため、持氏に従っていた三浦や千葉も幕府方に帰順して戦局の帰趨は決した。敗れた持氏は鎌倉の永安寺(ようあんじ)に幽閉されていたが、将軍義教へ持氏の助命を嘆願する憲実に対して、義教が持氏の処刑を強く命令じたことにより、幽閉から三か月後、永安寺にいた持氏と報国寺にいた義久親子は、補佐していた叔父稲村公方足利満貞とともに自殺させられ、永享の乱は終結する。永享十一年二月十日のことであった。すでに弟清方に管領職を譲っていた憲実は、関東管領職の復帰を固辞する。主人持氏とその嫡子義久を死に追いやった責任を痛感していたのであろう。憲実は関東管領職に自らの子息が就任することを避け、二子房顕以外の嫡子憲忠を含めたすべての子息を出家させることにし、憲忠が出家の命を守らず固く禁じていたのにもかかわらず関東管領に就任したことに怒り、所領を悔還(くいかえ)して義絶した。なお、関東管領職の任免権は鎌倉公方にはなく、室町幕府の掌握する権限であった。憲実は隠遁して諸国を遍歴し、十余年にわたって留まった中国地方の大内氏のもとで最期を迎えている。
 

図2-2-1 鎌倉府の政治機構
峰岸純夫『享徳の乱』(講談社、2017)所収図をもとに作成