関東管領山内上杉憲忠と扇谷上杉顕房は、鎌倉公方側の反上杉陣営に対抗するため結びつきを深め、扇谷上杉顕房の家宰(かさい)太田資清と山内上杉憲忠の家宰長尾景仲らが、宝徳二年(一四五〇)四月に鎌倉公方成氏を鎌倉に襲撃するという反乱を起こした。家宰とは上杉氏家臣団の頂点に立ち、政務を担当する重職で、上杉氏にとっては管領制成立以前の幕府内における執事と同様の重要な地位であった。襲撃された成氏は江の島に逃れ、成氏側の下総守護千葉胤将をはじめ下野の小山持政・宇都宮等綱(ひとつな)らが、太田・長尾らの両上杉氏家宰の軍と由比ガ浜で激しく戦って撃退した。
この両上杉氏の事実上の鎌倉公方に対する反乱事件は、幕府の管領畠山持国(一三九八~一四五五)と細川勝元(一四三〇~一四七三)の対立という背景もあり、両上杉氏の当主はもちろん、直接成氏を襲った太田と長尾両氏の処分すらうやむやにされてしまった。このような対立はそのまま両者の和解を生むはずはなく、享徳三年(一四五四)になって鎌倉公方側が上杉氏に報復するに至った。成氏は憲忠を自邸の鎌倉西御門(にしみかど)御所に招いて誅殺したのである。その際、家宰の長尾実景とその子景住らも同時に殺害された。この事件以後、関東の大小名や国人は、鎌倉公方足利成氏側と幕府が支援する関東管領上杉氏側とに分かれて享徳の乱が勃発し、関東の戦国時代は始まったのである。
図2-2-2 足利氏系図
‖は養子関係、 =は夫婦関係を示す。
峰岸純夫『享徳の乱』(講談社、2017)所収図をもとに作成