結城合戦

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 翌永享十二年三月、上野の岩松持国が持氏の遺児春王丸と安王丸を奉じて挙兵した。岩松は新田系の源氏の名門であり、上野守護上杉氏とは利害が対立する関係にあった。その後、春王丸・安王丸は、幕府や上杉氏に反感を持つ勢力に支えられ、結城氏朝・持朝父子に結城城に迎えられて一年にわたり幕府軍と戦った。この間、永享の乱で錦旗を与えられた篠川公方も、結城方に呼応した石川国光などの国人衆に滅ぼされている。一年にわたって持ちこたえた結城城での籠城も、嘉吉元年(一四四一)四月には落城して春王丸・安王丸は捕えられ、京都へ護送の途中、美濃国垂井宿で切られた。しかし、嘉吉の変で将軍義教が暗殺されると、京都の幕府、鎌倉の鎌倉府ともに主がいない時期が出現する。幼かった持氏の遺児万寿王丸(成氏)は結城合戦に巻き込まれず、また義教横死のおかげで追及されないまま、将軍義政が就任すると鎌倉公方への就任が認められて鎌倉府は復活した。成氏の「成」は既述のように、義政の将軍就任時の名が義成であったことから、その「成」の字の偏諱を受けたものである。滅ぼされた足利持氏を支持していた鎌倉公方派の国人たちは、永享の乱後に所領没収などの処罰を受けていたままであったため、関東管領上杉氏とそれを支持する勢力との対立的関係は続き、両者の関係は鎌倉府再興後も悪化していった。
 関東管領山内上杉憲忠と扇谷上杉顕房は、鎌倉公方側の反上杉陣営に対抗するため結びつきを深め、扇谷上杉顕房の家宰(かさい)太田資清と山内上杉憲忠の家宰長尾景仲らが、宝徳二年(一四五〇)四月に鎌倉公方成氏を鎌倉に襲撃するという反乱を起こした。家宰とは上杉氏家臣団の頂点に立ち、政務を担当する重職で、上杉氏にとっては管領制成立以前の幕府内における執事と同様の重要な地位であった。襲撃された成氏は江の島に逃れ、成氏側の下総守護千葉胤将をはじめ下野の小山持政・宇都宮等綱(ひとつな)らが、太田・長尾らの両上杉氏家宰の軍と由比ガ浜で激しく戦って撃退した。
 この両上杉氏の事実上の鎌倉公方に対する反乱事件は、幕府の管領畠山持国(一三九八~一四五五)と細川勝元(一四三〇~一四七三)の対立という背景もあり、両上杉氏の当主はもちろん、直接成氏を襲った太田と長尾両氏の処分すらうやむやにされてしまった。このような対立はそのまま両者の和解を生むはずはなく、享徳三年(一四五四)になって鎌倉公方側が上杉氏に報復するに至った。成氏は憲忠を自邸の鎌倉西御門(にしみかど)御所に招いて誅殺したのである。その際、家宰の長尾実景とその子景住らも同時に殺害された。この事件以後、関東の大小名や国人は、鎌倉公方足利成氏側と幕府が支援する関東管領上杉氏側とに分かれて享徳の乱が勃発し、関東の戦国時代は始まったのである。
 

図2-2-2 足利氏系図
‖は養子関係、 =は夫婦関係を示す。
峰岸純夫『享徳の乱』(講談社、2017)所収図をもとに作成