亨徳の乱

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 港区新橋二丁目にある烏森(からすもり)神社には、享徳の乱の開始を告げる足利成氏の願文が残されている(図2-2-3)。
 この文書は、享徳四年正月五日付の足利成氏の御教書(みぎょうしょ)で、同月二十一日に上杉方に大勝した分倍河原(ぶばいがわら)合戦に向かう直前に戦勝祈願のため、稲荷大明神烏森神社に奉じた文書である。この文書で成氏は、祈願のとおり戦勝したら社殿を修造する旨を述べているので、祈願のとおり直後の分倍河原合戦で大勝利を収めたので神社の修造を行ったものと思われる。したがって、この烏森神社に伝えられた足利成氏御教書は、この享徳の乱開戦にあたって烏森神社に成氏が祈願奉納した戦国時代の開幕を今に伝える貴重な文書であるといえよう。
 幕府では、鎌倉公方に対して融和的だった幕府管領の畠山持国が失脚した結果、持国と対立して関東管領支持の立場だった細川勝元が管領に再任した。このため、幕府は関東管領上杉支持という立場をとり、享徳四年正月十六日付で信濃守護小笠原光康と駿河守護今川範忠に出兵の軍勢催促状を発給した。正月二十一日、武蔵国分倍河原の合戦で、成氏軍は大軍を集結させた上杉軍に大勝し、上杉軍の大将だった扇谷上杉氏当主の顕房は負傷して自害、犬懸(いぬがけ)上杉憲秋も自害し、庁鼻和(こばなわ)上杉憲信は討死した。敗れた上杉軍は、長尾景仲が常陸に逃れ、勝利した成氏軍が、二月には北上して山内上杉氏が守護を務める上野や、上杉方勢力の強い下総に進出して戦果を拡大した。成氏は三月になって下総国古河に至って在陣し、小栗城に籠る長尾景仲と対峙した。成氏はこれ以後、鎌倉には戻らず下総古河を拠点として整備し、古河公方と称されるようになる。この享徳の乱が開始された初年の享徳四年の戦局は成氏側が優勢で、各所で戦勝して上杉軍を圧倒して長尾景仲の拠る小栗城も陥落させ、景仲は没落した。その後、幕府の堀越公方の関東派遣や、下総千葉氏や宇都宮氏にみられるような守護級の有力部将の家の内紛などもあって戦況は複雑な動きを示しているが、概ね利根川を挟んで関東北東部を支配する成氏方と、西南部を支配する上杉方の勢力が関東を二分して拮抗して戦線は膠着状態に陥った。したがって、武蔵は上杉の勢力下であった。
 幕府・上杉方は、上杉氏の守護国である上野・越後・武蔵の軍勢や京都から派遣された軍勢を中心に、山内上杉房顕を総大将、新田岩松家純らを副将にして武蔵五十子(いかっこ)(現在の埼玉県本庄市東五十子)に陣を構えて在陣し、下総古河に拠る足利成氏討伐の拠点とした。また、上杉氏を支援する幕府は、成氏に代わる鎌倉公方を新たに派遣することにして、将軍義政の弟政知を長禄二年(一四五八)八月に伊豆堀越まで進出させた。成氏は古河公方、鎌倉公方であるはずの政知はその居所から堀越公方と称するようになるのである。この享徳の乱は二八年間も続いて、あとから始まった応仁の乱が終了して後、文明十年(一四七八)に成氏と上杉氏が和睦したことで、幕府と成氏との和平への動きが進み、文明十四年十一月に将軍足利義政と古河公方足利成氏の間で和議が成立してようやく終わりを告げた。
 

図2-2-3 享徳4年正月5日付足利成氏願文
烏森神社所蔵 提供:港区立郷土歴史館