江戸城を築城したことで有名な太田資正(法名道灌)は、この享徳の乱で登場して以後、応仁・文明の乱で活躍した。太田氏は、主君の上杉氏と同じく丹波国の出身で上杉氏の根本被官(こんぽんひかん)であったとされる。道灌の祖父資光の代から扇谷上杉氏の家宰となり、父資清(法名道真)の跡を継いで道灌も扇谷上杉氏の家宰を務めた。資清が家宰の時に、鎌倉公方成氏を襲って江の島事件を引き起こしたことから、成氏側の上杉氏への反撃として享徳の乱が始まり、資清は山内上杉の家宰長尾景仲と連携して成氏と戦った。道灌は法名で実名は資長といい、資清から寛正二年(一四六一)に家宰を譲られて以後、文明十八年に主君上杉定正に謀殺されるまで上杉氏の部将として活躍して名を残した。
道灌は江戸氏の居館跡に江戸城を築城したことで有名であるが、現在の江戸城が徳川政権のもとで大規模に築造されたため、道灌の築いた江戸城の場所は、道灌堀などの地名に残るように、現在の江戸城の中に含まれることは間違いないが、当時の規模や範囲を正確に知ることは難しい。当時の江戸城は同時期の中世城槨(じょうかく)のなかでは大規模で、「子城(しじょう)」と称した本丸のほか「中城(ちゅうじょう)」「外城(がいじょう)」という郭(くるわ)があって、おそらくそれらは近世江戸城の本丸・二の丸部分にあったと推定されている。道灌は、康正二年(一四五六)から江戸氏居館跡に築城を開始して翌年にはそれまで居所としていた品川館から移った。江戸氏は、鎌倉時代には鎌倉幕府御家人として『吾妻鏡』にも有力御家人として登場していたが、南北朝時代に至って、応安元年(一三六八)の武蔵平一揆(へいいっき)の反乱で関東管領上杉氏に討伐された結果、江戸氏本宗家の没落は決定的となり、多くの所領を没収されたことは既述のとおりである。さらに江戸氏の項で述べたように、至徳元年(一三八四)には、江戸氏の旧領が闕所(けっしょ)として岩松氏に給付される遵行手続きに江戸氏一族が城郭を構えて抵抗していることが見える。江戸城のあった地域も、江戸氏から上杉氏の直轄地に編入されていたのであろう。扇谷上杉氏の家宰であった太田氏が江戸城を築城したのは、武蔵平一揆の乱の結果、江戸氏から没収されて上杉氏または太田氏の所領になっていたからに他ならない。上杉禅秀の乱・永享の乱・享徳の乱での江戸氏は、公方側の部将として討死しているので、幕府・上杉側からは所領没収の措置が取られていたことは疑いない。したがって、江戸城築城は江戸氏排除の結果として行われていると思われる。
相国寺の僧で漢詩文集『梅花無尽蔵(ばいかむじんぞう)』を残した万里集九(ばんりしゅうく)は、文明十七年十月に道灌に招かれ江戸城に滞在しており、後に『静勝軒記』を著している。その「静勝軒」という建物は、江戸城内の城主居館の中にあった館の名である。邸内の西面の富士を望む部屋を含雪斎と称し、東南の日比谷入江の海を眺める部屋を泊船亭と称していたという。このころ、江戸城周辺も開発が進み、人が集まってきたことが寺社の由緒からも推知することができる。道灌が江戸城築城後に赤坂溜池に勧請(かんじょう)したという久國(ひさくに)神社は、道灌寄進という久國の太刀を伝え神社の名前にもなっている。永禄年間に麻布谷町の現在地(六本木二丁目)に移転しており、戦前に久國の太刀は写真撮影されているが、所伝のとおり粟田口久國の作である可能性もある。また、麻布龍土町の天祖(てんそ)神社(六本木七丁目)も当時神明社として道灌が社殿を再建したといい、麻布本村町の氷川神社(元麻布一丁目)も、文明年間に道灌が足立郡大宮の氷川神社を分祀したと伝えられている。道灌は武将としての活躍だけでなく、万里集九を江戸城に招いたことでも知られるように、文芸の才能にも秀でた人物であった。江戸時代の『常山紀談』の「太田持資歌道に志す事」は、「七重八重花は咲けども山吹のみの一つだになきぞあやしき」という『後拾遺集』兼明(かねあきら)親王の和歌とともに、戦前の国定教科書に掲載されよく知られている。道灌は、幼少のころから足利学校や鎌倉五山で学問を学んで優れた才能をあらわしていたといわれる。すべてが事実とは言えないにしても、道灌の文芸への才能が並々でないことを示す逸話として江戸時代に広まった。道灌は文武兼備の知将として声望が高まり、道灌の活躍で扇谷上杉氏の勢威も上がったが、主家を凌ぐ名声に懸念をもった主人上杉定正によって謀殺されるに至った。文明十八年七月二十六日のことであった。道灌は定正の招きで訪れた相模糟屋館で殺害されたのである。江戸城は扇谷上杉氏に接収された。道灌の父道真もまもなく病死し、道灌の子息資康や被官は逃れて山内上杉顕定に帰属したが、これを契機に山内上杉・扇谷上杉両氏の対立は深まり、道灌横死の翌年には早くも両上杉氏は下野国で戦闘を開始した。これを長享の乱という。両軍は何度か激戦を交えたが、決定打にはならず戦局は動かなくなり、その後、山内上杉顕定が越後守護の父房能と守護代長尾能景の援軍を得て扇谷上杉朝良を降して和議が成立した。この長享の乱と呼ばれる兵乱も、永正二年(一五〇五)四月に終結するまで一八年も続いた大乱であった。