伊勢新九郎長氏は、駿河守護今川氏親の食客として迎えられ、伊勢宗瑞(そうずい)、後に北条早雲と呼ばれる武将である。堀越公方足利政知が死んだ後、正嫡(せいちゃく)と定めていた潤童子(じゅんどうじ)とその母を殺害して公方の座を奪った茶々丸に対して、宗瑞は今川勢の助力を得て攻撃し、茶々丸を追放した。茶々丸は山内上杉氏を頼り、宗瑞は扇谷上杉氏と結んで両上杉氏の戦いは再開されたが、明応七年(一四九八)八月、茶々丸が宗瑞に滅ぼされたことを契機に両上杉氏は和議を結び、新興勢力の宗瑞の脅威に対抗するようになる。宗瑞は伊豆韮山(にらやま)、さらに大森氏を追って小田原に拠点を定めた。これ以後、宗瑞は伊豆国を基盤にして相模、そして武蔵に侵攻していく。やがて、その子氏綱(一四八七~一五四一)に至り、北条姓を名乗って関東への本格的な支配拡大を図るようになる。
江戸城の上杉朝良は永正十五年に死去して朝興(一四八八~一五三七)が扇谷上杉氏を継ぎ、祖父道灌を謀殺された太田源六郎資高と源三郎資貞兄弟は同氏に帰参していたのだが、北条氏綱に内応して江戸城の北条氏攻略の機会を作った。伊豆相模の大軍を率いて北上する北条氏綱軍に対して、朝興は江戸城を出て高輪原(高縄原)に北条軍を迎撃した。高輪原古戦場(現在の高輪二・三丁目、白金台一丁目一帯)は、おそらく現地形から見て五反田方向から登っていった高輪台駅から明治学院、承教寺にかけての付近一帯だったと思われる。合戦の詳細は不明だが、上杉軍が高所に布陣し、五反田方向から攻め上ってきた北条軍先手と戦っているところに、品川方面の海岸沿いから迂回した北条氏綱の本隊が側面から攻撃して上杉軍が敗北した経緯が考えられよう。これが高輪原の合戦で、江戸城へ逃げ帰った上杉軍は、太田兄弟の北条氏への内応により城中に入れず、夜陰に乗じて北へ落ち延びたとする。戦勝した北条軍は、板橋付近まで追撃した後、赤坂一ツ木原(ひとつきばら)(現在の赤坂五丁目あたり)で首実検をして勝鬨(かちどき)を挙げたという。
以後江戸城は北条氏の城となり、武蔵の重要拠点の一つとなったのである。