白金(しろかね)城とも呼ばれる、国立科学博物館附属自然教育園(白金台五丁目)を中心とする四〇〇×五〇〇メートル、標高三二メートル、比高一六メートルという、中世城館跡としてはかなり大規模な城域を有する。現在でも各所に土塁とされる遺構が残っているが、江戸時代には讃岐高松藩下屋敷があり、さらに明治八年(一八七五)には帝国海軍火薬庫が設置され、明治末年には帝国陸軍に移管された。火薬庫の設置に伴う新築土塁の変更はあったと考えられているので、現在確認される土塁を、すべて白金長者とされる南北朝期の柳下氏が応永年間に築いた城郭そのままの遺構とするのは難しいだろう。明治期設置の火薬庫の正確な配置の検討を含め、なお築城当時の全容解明には研究の余地がある。
図2-4-1 白金長者屋敷跡要図
小室栄一『中世城郭の研究』(人物往来社、1965)から転載