法然の生涯

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 平安院政期から鎌倉中期までの間に、日本の仏教では奈良・平安時代以来の八宗に加え、新たな仏教諸宗派が生まれ、広く聖俗世界に享受されることになった。その諸宗派のなかでも、奈良時代を遡って受容された浄土教から生まれた浄土宗は、平安院政期から今日に至るまで日本仏教の重要な柱として相承されてきた。この浄土宗を創始したのは、言うまでもなく法然上人(しょうにん)(源空、一一三三~一二一二)である。
 法然の弟子である親鸞(一一七三~一二六二)が自ら書写した「西方指南鈔(さいほうしなんしょう)」(専修寺所蔵)には「法然聖人私日記」が収められており、法然伝記としては信頼すべき内容をもつと考えられ、本書に拠りながらその生涯をたどることにしたい。
 法然は、長承二年(一一三三)に美作国稲岡庄に在庁官人漆間(うるま)時国を父として生まれたが、保延七年(一一四一)父時国が殺害されたため、同国菩提寺観覚を師として出家した。さらに、天養二年(一一四五)観覚のもとより比叡山西塔北谷の持法房源光の室を経て、功徳院(くどくいん)皇円のもとで受戒を遂げ、天台教学の修学に励むことになった。しかし、名利をともなう学業を厭うた法然は、久安六年(一一五〇)に師皇円のもとを去り、遁世(とんせい)して西塔黒谷慈眼房叡空の室に入り、法然房源空と名乗り、南都に赴くなどして顕密諸宗を修学している。叡空のもとにあって法然は、自らを含む凡夫の「出離(しゅつり)の道」(往生)について考えをめぐらし、最終的に「称名(しょうみょう)」(阿弥陀仏の名号を称(とな)える)にすぐれた修行方法はないと確信し、観念こそが称名にすぐれるとする師叡空と対立し、その室をあとにして洛中に赴いた。そして安元元年(一一七五)、法然は四十三歳にして「浄土宗」を立宗するに至る。末法の世にあって凡夫が往生する唯一の方法は「称名之行」(念仏三昧)とする、つまり専修念仏(せんじゅねんぶつ)を教説の柱とする浄土宗が、ここに生まれたわけである。阿弥陀如来の慈悲により、その名号を称えた凡夫のみが往生を遂げられるという法然の教えは、聖俗に広く受け容れられることになり、既存の寺院社会からも法然を師と仰ぐ念仏行者(ぎょうじゃ)が生まれた。また、貴族社会でも九条兼実等が帰依を寄せ、その要請を受けて「選択本願念仏集(せんちゃくほんがんねんぶつしゅう)」が撰述された。しかし、法然の教えが僧俗に広まることに反発する南都北嶺の寺院社会は、しばしば専修念仏を批判し、その禁制を求める訴訟を繰り返した。ついに承元元年(一二〇七)専修念仏が禁制され、法然は土佐に配流(はいる)が決まったが、九条兼実等の働きかけにより土佐に赴く途上で勅免をうけ帰洛し、建暦二年(一二一二)洛東大谷において示寂(じじゃく)した。しかし、「末世の凡夫は阿弥陀如来の名号を称えるのみで往生が果たされる」という法然が提唱した専修念仏の教えは、以後も日本人の信心に大きな影響をのこすことになった。