法然の教説の骨格について、同じく「西方指南鈔」に収められる「法然上人御説法事」には、「浄土宗」の特質として「臨終正念(りんじゅうしょうねん)」「浄土ノ三部経」「仏ノ本願」「名号」が掲げられる。
まず「臨終正念」であるが、念仏行者は存生の間に往生のための行を重ね、その成就がなされたならば臨終にあたり聖衆(しょうじゅ)が来迎(らいごう)する。そして聖衆来迎、つまり西方から来迎する阿弥陀如来と仏菩薩聖衆により、臨終を迎えた行者は平静を妨げる魔王から守られ、「正念」のもとに浄土に赴き往生を果たすとする。
阿弥陀如来への信心を支える「浄土ノ三部経」(無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経)は、浄土宗の拠り所であり、これらの諸経に、「大乗宗(だいじょうしゅう)」「小乗宗(しょうじょうしゅう)」とならぶ「浄土宗」の、「往生浄土」という特徴的な教説が語られている。
「仏ノ本願」の「仏」とは、いうまでもなく阿弥陀如来であるが、如来の前身である法蔵菩薩は「四十八願」の誓願を立ててその遵守を誓うことにより、菩薩から如来に転じて阿弥陀如来となった。菩薩から如来に転ずるにあたり、阿弥陀如来として誓約した四十八願の内、第十八願こそが凡夫の往生を必ず実現すると誓った「弥陀ノ本願ノ行」である。釈迦が凡夫に説いた、過去仏である阿弥陀如来の「本願ノ行」とは、その第十八願に基づき「念仏ノ一行」により凡夫往生が果たされるという教えである。阿弥陀の誓願に全面的に依拠することにより、「称名」という行為により救いを求めるすべての凡夫に対して往生が約束されるという教えは、煩悩にとりつかれた凡夫にとって、大きな光明であったことは確かであろう。
最後に「名号」であるが、阿弥陀如来の凡夫に及ぼす功徳は数え切れないとしても、集約するならば、「南無阿弥陀仏」との「名号」に尽きるとする。末法の世にあって、「念仏ノ一行」つまり阿弥陀如来の誓願が凝縮された「名号」を唱えることにより、凡夫の「往生」が実現するわけで、この「念仏往生」の教えこそ、凡夫の往生という視点から見れば、様々な作善により往生が果たされると説く「諸行往生」に優れるとする。
このように末法の凡夫にとって、阿弥陀如来の本願に基づく「念仏ノ一行」(専修念仏)こそ、往生を果たす唯一の方法であると説いた法然の教説が、往生を願う多くの聖俗に受け容れられたことは納得できよう。易行(いぎょう)とされる「念仏」によってのみ往生が約束される教えは、この後の日本人の信心に、多大な影響を与え、また浄土宗の教団を支え発展させたわけである。