法然の教化(きょうけ)(布教)により、その教説は広く僧俗に受け容れられたが、その一方で、既存の寺院社会からは強い反発を受けることになった。とくに、比叡山延暦寺の衆徒(しゅと)による念仏停止(ちょうじ)訴訟の動きを受けて、元久元年(一二〇四)法然は配下の念仏行者に対し自戒を命じ、その誓約を求めて起請文(きしょうもん)を草し、末尾には二百人を超す門徒の連署が掲げられた。二尊院所蔵の「源空七箇条制誡」(源空告文(こうもん))と呼ばれる起請文は、阿弥陀仏以外の諸仏・菩薩や、念仏以外の「真言・止観(しかん)」等の修行への批判を禁じ、念仏行者が自らの修行方法を誇る余り、正しい教えを理解せず邪法を説くことを厳禁している。法然が「専修念仏」を説き浄土宗を立宗後、三十余年を経て法然門下の念仏行者が増加する中で、無智のままに他宗・他行を批判し「妄説」「邪法」を説く、門下を自称する念仏行者が生まれ、これらの存在が他宗からの反発を誘因することになった。そこで法然は、既存の寺院社会からの反発を防ぐために、門下の念仏行者に「七箇条制誡」の遵守を命じ、本起請文に連署を求めたのである。この起請文により延暦寺衆徒からの攻撃は回避されたものの、元久二年に興福寺の碩学(せきがく)解脱上人貞慶(じょうけい)が、法然の「専修念仏宗義」の誤りを指弾した「興福寺奏状」を草し、これを契機として承元元年(一二〇七)専修念仏を禁制する勅命が下された。
ところで、法然が記したとされる「没後遺誡(もつごゆいかい)」(「黒谷上人語燈録(くろだにしょうにんごとうろく)」収載)には、自らの門下への視線を窺うことができる。すなわち、「普(あまね)く予が遺弟(ゆいてい)等に告ぐ、予の没後に各宜しく別住すべし、須(すべから)く一所に共居すべからず、共居は和合に似たりといえども、而(しか)るに又恐るらくは闘諍(とうじょう)起こらん、静処に閑居し独り念仏を行うにしかざる也」(原漢文)との一文には、法然の没後に「遺弟」が「共居」したならば、「遺弟」相互で「闘諍」が起きる可能性があり、それを防ぐためにも各々が別々に「静処に閑居」し念仏修行に励むようと遺言している。このように門徒集団内では、法然の生前より相互に教説をめぐる対立があり、自らの没後に「共居」したならば、対立により門徒集団が四散するのではと危惧し、まとまりを維持しながらも分散することが望ましいと考え、法然は「遺誡」を記したのであろう。
「法水分流記」によれば、法然没後に門徒集団の中核にあった信空のもとに白川門徒のまとまりが、また幸西のもとに一念義を信奉する門徒集団が生まれた。さらに、隆寛のもとで多念義を主張する集団は、後に鎌倉長楽寺・安養寺等を拠点とすることになり、弁長が提唱する鎮西義を掲げた集団(鎮西派)は、その弟子良忠が創建した鎌倉悟真寺(光明寺)に拠り、證空が唱える西山義(せいざんぎ)を共にする西山派は、洛西の善峯寺・三鈷寺(さんごじ)等を拠点とし、長西が提唱する九品寺義(くほんじぎ)を掲げる門徒集団は鎌倉浄光明院に拠り、さらに親鸞を仰ぐ大谷門徒は、後に大谷本願寺や下野高田専修寺(せんじゅじ)等に拠り門葉(もんよう)を広げていった。このように、法然の門徒は洛中・洛外のみならず鎌倉から東国に拠点寺院を設け、その教線を東国に広げていったのである。