親鸞と「浄土真宗」

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 永仁三年(一二九五)親鸞の曾孫である覚如が自ら曾祖父の足跡をたどり制作した「善信聖人親鸞伝絵(ぜんしんしょうにんしんらんでんね)」(専修寺所蔵)は、信頼度の高い親鸞伝といえる。本書によりその生涯をたどるならば、承安三年(一一七三)に日野有範を父に誕生した親鸞は、九歳で出家の後、十代・二十代には延暦寺の常行三昧堂に止住し、三十代には山を下りて洛中吉水(よしみず)(現在の京都市東山区)の法然のもとで念仏修行に励んだ。承元元年の専修念仏の禁制により越後国府に流罪(るざい)とされ、赦免をうけた後に東国に赴いた親鸞は、四十代から五十代の二十年間、常陸国を拠点として東国の教化に励み、門徒の集団を育むことになった。さらに、文暦二年(一二三五)ころに東国より帰洛した親鸞は、以後弘長二年(一二六二)に九十歳で示寂するまで、京都の住坊において「顕浄土真実教行證文類(けんじょうどしんじつきょうぎょうしょうもんるい)」(教行信証)をはじめ様々な著述に励むとともに、東国門徒には書札(しょさつ)・法語や聖教(しょうぎょう)を下して教化を続けた。
 親鸞が教化を進めていた東国では、「善信聖人親鸞伝絵」巻四「山伏済度」に描かれた、親鸞の命を狙う修験(しゅげん)行者弁円の挿話に見られるように、その教化のなかで、時に障害となる修験者や巫女(みこ)、さらに法然の教えを広める他の法然門葉と競合することになった。親鸞は自らが拠るべき教説を、専修念仏を柱とする「浄土宗」としながらも、法然の教えを忠実に継承するのは自分であると確信して教化活動を進めた。そして親鸞の教化により、各地に門徒集団が生まれるとともに、後の「真宗」教団の基礎が東国において形づくられたのである。
 さて、法然門徒に連なる親鸞であるが、「善信聖人親鸞伝絵」巻二の「選択相伝」段によれば、建仁元年(一二〇一)に「雑行(ぞうぎょう)を棄て本願に帰する」、つまり従来の仏道修行を捨てて、阿弥陀如来の本願である念仏修行に帰した。さらに、元久二年(一二〇五)には法然の許しを得て「選択本願念仏集」を書写し、その内容を得心した証として、自らの写本に「選択本願念仏集」との内題とともに、「南無阿弥陀仏往生の業(ごう)は、念仏を本と為す、釈綽空(しゃっくう)に与う」(原漢文)との法然自筆の授与銘を得るとともに、師が「銘」を加えた「真影」を与えられている。このように親鸞は法然門徒の証として、師自らが内題と授与銘を染筆した「選択本願念仏集」、「真影」と「銘」を得て、「浄土宗」門徒に列することになった。
 ここで親鸞を宗祖とする浄土真宗であるが、その教団名は江戸中期以降に定着するもので、親鸞自身は自ら信奉する教えを「浄土宗」と称しており、また中世においては「一向宗」が広く用いられていた。親鸞は「浄土真宗」という表現を用いているが、これは「善信聖人親鸞伝絵」巻三「越後配流」段に、「浄土宗興行によりて聖道門廃退す、これ空師(法然)の所為なりとて、忽ちに罪科せらるへきよし、南北の碩才鬱し申しけり、顕浄土方便化身土文類六に云く、竊(ひそか)に以(おも)うらくは聖道の諸教行証久しく廃れ、浄土真宗の証道今盛んなり」とあり、「顕浄土方便化身土文類」の文言に見られる、「聖道門」に対比した「浄土真宗」とは、正しい「浄土宗」の教えという意味であり、後世の教団の呼称とは異なる。つまり、法然が立宗した「浄土宗」と、親鸞の語る「浄土真宗」は併存して展開した念仏行者の集団の呼称ではなく、あくまで「浄土真宗」とは、親鸞が強調した「浄土宗」の正当な教えという意味であることを再確認しておきたい。
 そこで、親鸞が説く教えの特徴を、「末燈鈔」に収められる建長三年(一二五一)閏九月二十日の法語に見るならば、「浄土宗のなかに真あり、仮(け)あり、真といふは選択本願なり、仮といふは定(じょう)・散二善なり、選択本願は浄土真宗なり、定・散二善は方便仮門(ほうびんけもん)なり、浄土真宗は大乗の中の至極なり」として、自らが掲げる「浄土宗のなかの真」の教えとしての「浄土真宗」は「選択本願」(阿弥陀如来が選択した第十八願の教え)つまり専修念仏であるとする。その一方で親鸞以外の法然門下が説く教えは、専修念仏とは対照的な「定・散二善」、つまり自らの観念としての定善、自らの行善としての散善により「諸行往生」を実現する「仮」「方便」の教えであるとする。さらに、「来迎(らいごう)は諸行往生にあり、自力の行者なるがゆへに、臨終ということは、諸行往生のひとにいふへし、いまた真実の信心をえさるがゆへなり」として、平安時代以来、多くの人々が信心の支えとしてきた往生の契機としての「来迎」「臨終」は、専修念仏に対する「諸行往生」を修行の術とする「自力の行者」が目指すものとする。他方で、「真実信心の行人は、摂取不捨(しょうじゅふしゃ)のゆへに、正定聚(しょうじょうじゅ)のくらゐ(位)に、信心のさたまるとき住す、このゆへに臨終をまつことなし、来迎をたのむことなし、信心のさたまるときに、往生はさたまるなり。来迎の儀式をまたす」として、「選択本願」に基づく「真実の信心」を得た「行人」は、阿弥陀如来の本願により往生を約束された「摂取不捨」「正定聚」という立場にあり、もはや「臨終」「来迎」を待つ必要はないと説く。このように、「定・散二善」の対極にある「選択本願」による「信心」が定まれば「往生」は確定するということが、親鸞の説く「浄土真宗」の特徴的な教えであった。
 親鸞は自ら「浄土宗」に属するとともに、他の法然門徒の教説とは一線を画し、その区別性を明確にした。すなわち、「仮」「方便」の教えを劣位にある「他力のなかの自力」と呼び、自らの「浄土真宗」の教えを優位にある「他力のなかの他力」と説くことにより、親鸞に従う門徒集団が「真実」の信心を得るための重要な支えとしたわけである。