親鸞弟子の唯円が編述した「歎異鈔(たんにしょう)」には、「親鸞は弟子一人ももたすさふらう」として、親鸞が自らの弟子を持たぬとの意思を語ったという。しかし、前掲の法語を一見すれば、親鸞が門徒に対して独自の教説に基づく教化に腐心していたことは明らかである。「善信聖人親鸞伝絵」の「稲田興法」段によれば、勅免をうけて越後国から常陸国に赴いた親鸞は、笠間郡稲田郷に草庵を設けたが、「幽栖を占(しむる)といへとも、道俗跡を尋ね、蓬戸(ほうこ)を閉(とず)といへとも、貴賎衢(ちまた)に溢(あふれ)、仏法弘通(ぐつう)の本懐ここに成就し、衆生利益の宿念(すくねん)たちまちに満足す」とあり、この草庵には多くの僧俗・貴賎が集まり、ここを拠点において諸方に赴き教化を行い、「仏法弘通の本懐」を達成したという。その結果、「弟子一人ももたす」との一言とは裏腹に、「二十四輩」に象徴される親鸞門徒が、東国の各地に点在することになった。
「親鸞聖人惣御門徒等交名(きょうみょう)」(近江光照寺所蔵)には、親鸞の直弟として東国門徒の中核的な立場を占めた下野高田門徒の祖真仏をはじめとして、下総横曽根門徒の祖性信、常陸鹿島門徒の祖順信など、下野・常陸・武蔵・下総・奥羽・越後等に散在する門徒が列記され、さらに真仏の付弟として、下野高田門徒の顕智、武蔵荒木門徒の光信(源海)等が掲げられる。なお、『下野国誌』巻七には、親鸞末葉に連なる真宗「五派法系」の祖師として、高田専修寺第二世の顕智上人、仏光寺・興正寺の祖源海上人、近江錦織寺(きんしょくじ)の祖善性上人、本願寺祖の如信上人、越前三門徒の祖如道上人が列記され、異説はあるが、親鸞の東国門徒を祖と仰ぐ真宗諸本山の「法系」が列記される。このなかで、高田門徒の祖師真仏・顕智の末葉に源海・如道が、さらに源海の弟子として、本論で取り扱う麻布善福寺を拠点とした阿佐布(あざぶ)門徒の祖了海が連なることになる。
ところで、法然の教えに深く傾倒し、その教説を正しく継承しようとの強い意図をもった親鸞であるが、法然がその門徒に御影(みえい)を授与する行為に見られる祖師への信心を、そのまま自らの門徒にも容認していた。親鸞の寂後にその影像(ようぞう)(絵像・彫像)が生まれ、洛中大谷に創建された廟堂(びょうどう)には、親鸞の遺骨とともに木像を安置する六角堂が設けられた。この木像を主尊とする六角堂の存在こそ、親鸞への祖師信仰の具体的な姿を示すものである。さらに、本来ならば寺域の中心に位置すべき阿弥陀如来を本尊とする阿弥陀堂(如来堂)が、親鸞影像を主尊とする御影堂の脇に置かれてきた本願寺をはじめとする真宗本山の堂宇配置こそ、門徒集団の親鸞への崇敬が祖師信仰の萌芽となり、その高まりのなかで生まれた象徴的な現象ということになろう。
親鸞は東国門徒への教化のなかで、門徒集団への強い執着をもっていた。弘長二年(一二六二)十一月、示寂直前に記された親鸞消息(西本願寺所蔵)には、自らの没後にのこされる息女覚信尼の身を案じ、「ひたち(常陸)の人々」にその保護を求めるよう書状に記し息女に渡している。すなわち「ひたちの人々の御中へ、このふミ(文)をみセさセ給へ、すこしもかはらす候、このふミにす(過)くへからす候へハ、このふミをくに(国)の人々おなしこゝろに候はんすらん、あなかしこ〳〵」と語り、親鸞は「ひたち」をはじめとする東国門徒をもっとも頼りにしており、息女覚信尼に対しても自分と変わらず接してくれるはずだとする一文に、その信頼度の高さが窺えよう。
このように、嘉禎元年(一二三五)ころに帰洛した後も、親鸞は東国門徒への篤い信頼をいだき、東国門徒の信心を支えるために、教化の手段としての書状(書札・法語)や聖教を草し授与して導き続けた。そこで、東国門徒の中心となる高田門徒が拠点とした下野高田専修寺に、多くの親鸞自筆の書状や聖教が伝来したことも納得できよう。