前掲の「親鸞聖人惣御門徒等交名」によれば、高田門徒の中核にあった真仏の門葉から、専修寺の第二世顕智とならび、「ムサシノクニアラキ((武蔵国)(荒木))ノ源海」とある荒木門徒の祖源海(光信)が、その門下に「ムサシノクニアサフ(阿佐布)ノ了海」として阿佐布門徒の祖了海(願明)が連なっている。
了海について、『江戸名所図会(ずえ)』巻三「麻布山善福寺」に引用される「寺記」「二十四輩霊場記」により、その生涯をたどることにしたい。なお、善福寺所蔵の版本「麻布山善福寺釈了海畧伝」(以下「畧伝」と略称)は江戸時代後期に生まれたものであるが、内容的な骨格は『江戸名所図会』と大きく異なるところはない。
善福寺中興の了海は、鳥羽院の末裔左大臣藤原信実(のぶざね)の息であり、この信実は武蔵国に下り品川の大井に住したとされるが、この点について史料的な裏付けは得られない。信実は子がないことを憂えて蔵王権現に祈請(きじょう)し、その効験(くげん)により室が懐妊し、建仁元年(一二〇一、「畧伝」では「建保元年」)十月十五日に一男子を得たが、これが了海とされる。了海は七歳の時に父に向かって出家の意思があることを伝え、実相寺範賢のもとに入寺することとなった。さらに、了海は比叡山に登り、静栄のもとで「顕密の学」を学んだ後に故郷に戻り、「本願弘興の基址」を求め「一精舎」を得て止住したが、この「精舎」こそが空海を開基と伝えられる善福寺とされる。
さて、貞永元年に親鸞が「東国経回」の途上、善福寺を訪れたという。了海は親鸞を迎え、「三密瑜伽(さんみつゆが)・六即止観」つまり真言・天台の教説について問答し、その見識に感じ入ることになる。さらに「念仏往生の理(ことわり)」をめぐる教説を聴き、親鸞に帰依して善福寺の「宗風」を真言宗から浄土宗に改め、「直弟六老僧の随一」として広くその教化に励んだ後、永仁二年(一二九四)に往生を遂げたという。
この了海の示寂であるが、「畧伝」によれば、「仏光寺の実録」で「元応二年庚申正月廿八日」、「伝燈系図」に「元応二年十一月六日」、「大谷遺跡録」に「元応二年の春正月」として、永仁二年とは異なる元応二年(一三二〇)との伝承がのこされている。また「大谷遺跡録」によれば、弘安元年(一二七八)に興正寺に入って「第四世の寺務」となり、永仁五年に誓海に寺務を譲って「武州麻布に下る[五十九]」とあるが、その事跡についても未だ検討の余地が残る。
さて、了海の門葉として「親鸞聖人惣御門徒等交名」には、「ムサシノクニアサフノ了海」に「性智[アサフ]」「了智[アサフ]」、「信願[オホヰ(大井)]―子息浄日」、「智教[コイシカハ(小石川)]―願空」、「教智[ユシマ(湯島)]―教音」、「願念[カマクラ(鎌倉)ノ誓海]―御子息安浄―願證」、「寂明[カマクラノエシナリ]―子息唯教」等が釣られている。すなわち、「アサフ」の善福寺に止住する性智・了智の他に、大井・小石川・湯島の信願・智教・教智等がその子息とともに、また鎌倉の誓海・寂明などが了海の門徒として武蔵国内に点在し、ここに善福寺を拠点とする阿佐布門徒の広がりを見ることができる。
なお、阿佐布門徒の流れを引く鎌倉門徒の願念(誓海)の末葉である了源は、後に京都山科に興正寺を創建することになる。