了海により「真宗」寺院とされたという善福寺であるが、その来歴を、江戸後期の成立ながら、典拠に富む『江戸名所図会』巻三に見ることにしたい。本書によれば善福寺は弘法大師の草創とされ、文永三年(一二六六)に亀山上皇の御願寺とされ寺領の寄進を得たというが、これらの由緒について明確な証左は得られない。また、境内には「古墳」が多くあり、古い由緒のある土地柄とされ、この「一向専修」の宗風を掲げる善福寺に、遠路を厭(いと)わず門徒が足を運んだという。
ここで『江戸名所図会』に記されたその来歴であるが、
麻布雜色にあり[昔は亀子山と/号しけるとぞ、]親鸞聖人の弘法(ぐほう)の地にして、当宗関東七箇大寺の一員、了海上人開山たり、亀山帝の勅願、本尊阿弥陀如来の像は恵心僧都の作なり、往古は南紀野山に象(かたど)りて草創ありし梵宇(ぼんう)にして、初めは真言密乗の勝区たりしか、貞永元年壬申、了海師、親鸞上人の弘法に帰化(きけ)し宗風を転す、支院十余宇あり、[小田原北条家の所領役帳に、島津孫四郎所領の中に、飯倉/桜田善福寺分とある地名を加へたり、当寺の事をいへるなるべし、]
として、「麻布雜色」に寺域を占める善福寺は、弘法大師により高野山に摸して創建された真言宗寺院とされるが、その創建の由緒についても今後の検討が必要である。また、貞永元年に了海が親鸞に「帰化」(帰依)して「宗風」を真言宗から浄土宗にかえて以降、親鸞末葉である阿佐布門徒の拠点寺院となったことは前述のとおりである。
なお、親鸞が「弘法の地」とした由緒により、「当宗関東七箇大寺」の一寺としての寺格を占めたという。この「関東七箇大寺」は、親鸞との関わりの深さにより定められた寺格であり、「遺徳法輪集」巻三には、勝願寺(下総古河)・称名寺(下総結城)・光明寺(常陸下妻)・三月寺(常陸下妻)・善福寺(武蔵豊島)・永勝寺(相模鎌倉)・福専寺(下総葛飾)の七寺が掲げられ、その内の一寺が本寺である。この寺格が確定したのは、東西本願寺が関東に拠点を設けた江戸時代のことと思われ、七寺の構成についても異説があるが、善福寺についてはその「一員」として定まっていたようである。また、善福寺の本尊は源信作の阿弥陀如来とされ、寺格に相応しい本尊といえようが、残念ながらその伝来の痕跡はない。さらに、寺格相応に公家から受けた処遇として、亀山天皇の「勅願」寺となったことが伝承されるが、これについても史料的には確定し難い。
少なくとも江戸時代には「支院十余宇」を備える寺院としてあり、創建以来の見るべき由緒と、親鸞より「一向専修(いっこうせんじゅ)」の教説を伝える法燈に連なり、戦国時代には「一向宗」に対して厳しい態度をとった小田原北条氏の支配のもとにあった「飯倉桜田善福寺」は、「関東七箇大寺」に相応しい真宗寺院として、中世から近世に寺勢を保つことになる。