本願寺の発展

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 弘長二年(一二六二)に親鸞は示寂し、荼毘(だび)の後、東山延仁寺に墓所が設けられ、さらに文永九年(一二七二)には墓所を改めて東山大谷に廟堂が創建された。この廟堂が創建された背景には、諸国門徒の広がりとともに祖師の墓所への参詣があり、後に廟堂は規模を拡大させて本願寺となる。この廟堂の創建を進めたのは親鸞息女の覚信尼(かくしんに)であったが、敷地の確保から堂宇の建立を負担したのは東国門徒であり、この廟堂は東国門徒の共同所有とされ、廟堂に止住する覚信尼やその子息は、あくまでその管理を担うことから、自らを「留守職(るすしき)」と呼んだのである。
 鎌倉後期に親鸞廟堂の支配をめぐり、覚信尼息の覚恵(かくえ)と唯善(ゆいぜん)との後継者争いのなかで、唯善により廟堂が破壊され、親鸞の遺骨は一時鎌倉に持ち去られた。ここで、大谷の廟堂はその存続にあたり大きな危機を迎えたが、延慶二年(一三〇九)覚恵の息覚如(かくにょ)(一二七〇~一三五一)が東国門徒の後援を受けその再建を図ることになり、大谷の廟堂は再生した(「存覚一期記」)。そして廟堂再建にあたり、その創建時と同様に、高田門徒の顕智をはじめ東国門徒の熱心な関わりにより、親鸞影像の造立、遺骨の安置、そして堂舎の再建が推し進められ、ここに廟堂から寺の規模を整えた大谷本願寺が生まれることになった。
 親鸞の血筋を引く覚如は、本願寺を親鸞門徒による祖師信仰の拠り所としてではなく、「浄土真宗」に帰依する門徒集団の本寺としての立場を目指したのである。すでに親鸞の存命中から、東国門徒は各地に拠点となる寺や道場を設けており、高田門徒・横曽根門徒・鹿島門徒・荒木門徒・和田門徒等の東国門徒の集団が、各々親鸞の直弟を祖師と仰いで拠点寺院を守り、本願寺に成長する大谷の廟堂は、あくまで東国門徒が共有する祖師の墓所にすぎなかった。また覚如は親鸞の曾孫という立場にあったものの、その直接の教えに触れたわけではない。そこで覚如は、弘安十年(一二八七)に東国から上洛した親鸞の孫の如信(にょしん)から「釈迦・弥陀の教行を面授」され、「他力・摂取の信証を口伝」されたと主張した。ここで法然・親鸞・如信と伝えられた専修念仏の教えを「面授」された覚如は、「三代伝持」により、自らの教説の拠り所を得たのである。そして、親鸞直弟を祖師とする諸国の寺・道場に対して本願寺による末寺化が図られ、ここに本願寺を頂点においた「一向宗」の教団が形成されることになった。
 覚如より以降、善如(ぜんにょ)・綽如(しゃくにょ)・巧如(ぎょうにょ)・存如(ぞんにょ)・蓮如(れんにょ)と本願寺の歴代門主(留守職・住持職)が続くが、蓮如が登場するまでの本願寺は、その寺勢が必ずしも盛んであったとは言えない。しかし、綽如・巧如・存如の時代に本願寺はとくに北陸に教線を広げ、越中瑞泉寺等の末寺住持には門主一族が据えられ、また本願寺の教説とは異なる教えを説く門徒は破門とされ、本寺・手次・末寺という門徒・末寺の支配体制が整えられ、ここに教団として発展する基礎が固められていった。そして、本願寺が大きく発展を遂げる蓮如(一四一五~一四九九)の時代を迎えることになる。