親鸞は自ら「浄土宗」を教説の拠り所とするとともに、法然の正統な教説を継承するとの確信のもとで、その教えを「浄土真宗」と呼称したことは前述のとおりである。親鸞にとって「浄土真宗」は、あくまで法然より継承した教えの体系であって、「浄土宗」と並ぶ教団としての語ではなかった。そこで親鸞門徒の多くが自らの信心の拠り所とする教えをどのように呼んでいたかを、蓮如が門徒に下した御文(おふみ)(書札、法語)から知ることができる。越中行徳寺所蔵「蓮如自筆御文集」に収められる文明五年(一四七三)九月二十二日の御文に、「夫(それ)当流をみな世間に流布して、一向宗と号する事、さらに本宗においてその沙汰なし、いかやうなる子細にてさふらうやらん、こたへていはく、あなかちに当流を一向宗と、我宗よりなつくる事はなきなり、ことに祖師聖人は浄土真宗とこそ、さためられたり」との一文が見られる。つまり蓮如は、「本宗」「我宗」を、門徒が「一向専念無量寿仏」に由来する「一向宗」と呼ぶことには批判的で、本願寺が自らその呼称を用いることはなく、祖師親鸞は「浄土真宗」と定めていたとする。蓮如は「浄土真宗」の「真」字を、親鸞の言葉に仮託して、「もろもろの雑行をきらふかゆへに、真実報土の往生をとくるなり」とあることから、この「真」を加えて「真宗」と呼んだと理解している。蓮如の基本的な認識は、明らかに親鸞とは異なるものであるが、少なくとも室町中期までに「一向宗」という呼称が門徒には広く共有されていたこと、その「本宗」「我宗」の呼称を「一向宗」ではなく、「真実報土」を強く意識した「浄土真宗」との呼称を用いようとしていたことは確かである。なお、「一向宗」ではなく「浄土真宗」を「本宗」「我宗」の呼称としようとした蓮如の意図は、最終的に実現するに至らず、江戸時代に至っても幕府は「一向宗」を用いたのである。
さて、蓮如が住持職にあった時代の本願寺は、配下に末寺・門徒を擁する教団として大きく発展を遂げていた。蓮如は、長禄元年(一四五七)父存如が入滅し、その跡を承けて本願寺住持を継職したが、その当時の本願寺は窮乏のなかにあった。この本願寺が大きく教線を展開させた端緒は、蓮如による近江国内の積極的な教化であろう。近江堅田(かたた)(現在の滋賀県大津市)・金森(同守山市)等には中核となる門徒によって道場が建立され、さらに国内に点在する道場には、蓮如の手になる「名号」・絵像とともに教えを説く「御文」が下され、ここに近江門徒が急速に成長したわけである。しかし、この動きに対して大きく反発したのは、近江国を重要な社会的・経済的な基盤としてきた比叡山延暦寺であり、ついに寛正六年(一四六五)山門西塔院の衆徒は集会を催し、鎌倉中期より親鸞門徒が崇敬の拠り所とした大谷本願寺を破却するに至った。大谷本願寺を失った蓮如は、近江国内の道場を転々として門徒をまとめ、また山門の派遣した軍勢の攻撃に対しては近江門徒が反撃して、ここに初の一向一揆と呼ぶべき戦いが繰り返されたのである。
山門の圧迫を受けた蓮如であるが、文明三年に近江大津から越前・加賀両国境に位置する吉崎(現在の福井県あわら市)に移り、吉崎御坊と呼ばれる「一閣を建立」した。ここで蓮如を迎えた末寺・門徒は、吉崎に北陸門徒が信心の拠り所とすべき寺院群を造営し、この地に多くの門徒の参詣を受け容れる寺内町が形成された。しかし蓮如は、加賀国の守護職をめぐる対立など、政治的な混乱に巻き込まれ、最終的に文明七年に吉崎御坊を退居し、河内出口御坊を経て、文明十年に山科本願寺を創建することになる。この山科本願寺には、築地・土塁に囲まれた寺域に御影堂・阿弥陀堂などが並び、寺内町としての規模を誇るとともに、この地が本願寺発展の重要な拠点となった。山科本願寺において門葉の教化につとめた蓮如であるが、延徳二年(一四九〇)に「大谷本願寺御影堂御留守職」つまり本願寺住持職を実子の実如に譲り、自らは摂津国生玉庄大坂に隠居のための「坊舎」を造立したが、この「大坂御坊」が後の石山本願寺となる。なお蓮如は、明応七年(一四九八)に病を得て往生を予感し、いったん大坂から山科に戻った後、この地で示寂した(「天正三年記」「鷺宮旧事記」「山科御坊事并其時代事」)。
親鸞廟堂から生まれた大谷本願寺から、蓮如の時代に吉崎御坊・山科本願寺・大坂御坊が相次いで創建され、本願寺は教団として大きな成長を遂げた。この後、実如・證如の時代は山科本願寺、顕如・教如の時代に石山本願寺が、本願寺の教団と門徒集団の拠点として、聖俗両界にわたり威勢を振るうことになる。