石山本願寺と阿佐布門徒

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 蓮如により創建され、実如・證如と継承された山科本願寺は、享禄五年(一五三二)に近江六角氏と洛中法華宗徒による攻撃を受けて焼失し、門主(住持職)の證如は大坂御坊に移った。そして、顕如(一五四三~一五九二)のもとで大坂御坊(石山本願寺)は、本願寺門徒(「一向宗」門徒)の本山とされ、「両御堂」(御影堂・阿弥陀堂)、門主が止住する寝殿等と門徒が集住する町屋を堀と築地が囲む大規模な寺内町として整備が進められた。山科から石山へと移るなかで急速に成長を遂げた本願寺は、諸国門徒の頂点にある本山として隆盛をとげるとともに、京都の摂関家や武田信玄をはじめ戦国大名とも深く交流し、世俗社会へも大きな影響力を及ぼすことになった。なお、弘治元年(一五五五)に若くして父證如より本願寺を継承した顕如は、永禄二年(一五五九)に正親町(おおぎまち)天皇の勅許を受けて門跡に列し、ここに本願寺は聖俗にわたる強固な権威を得たのである。
 この顕如の時代に、洛中から畿内の制圧を目指した織田信長は、石山本願寺に対して矢銭の賦課のみならず、寺域の移動などをもとめた。信長の強引な要求が続くなかで、顕如は本願寺が「退転」(滅亡)する危機を感じ、諸国門徒への「馳走」(尽力)を求めて書状を下した。そして、元亀元年(一五七〇)より天正八年(一五八〇)まで、本願寺と信長との、石山合戦と呼ばれる戦いが続くことになる。
 ここで永禄九年に「阿佐布(あざぶ)」に宛てた北条氏康朱印状が、善福寺に伝来する。本文書の冒頭に、「一向宗」が他宗に対して「宗師(〔旨〕)問答」を仕掛けることを禁じ、その記述のなかに「既に一向宗、絶えられて以来、六十年に及ぶ」(原漢文)とあり、北条氏が文亀年中(一五〇一~一五〇四)に「一向宗」を禁制していたことが知られる。ただし本文書によれば、北条氏は長年対峙してきた長尾景虎(上杉謙信)を牽制するため、「加賀衆」(加賀一向衆)に命じて越後国に「乱入」するよう「大坂」(本願寺)に依頼し、その条件として「分国中の一向宗、先規を改め建立すべき旨」(原漢文)、つまり北条氏の領国内での「一向宗」の容認を申し送っていた。結果的には「加賀衆」の越後「乱入」はなされなかったが、約定に従って北条氏の分国内で「一向宗」の存在を認める旨が伝えられた。つまり、北条氏の支配下にある相模・武蔵国で、文亀年中には禁制された「一向宗」であるが、永禄年中には本願寺との軍事的な関係を重視した北条氏が、その禁制を解いたのである。
 

図3-1-4-1 永禄9年10月2日付北条氏康朱印状
善福寺所蔵


 
 ところで善福寺は、どの時代から「一向宗」を掲げ本願寺を本寺と仰ぐことになったのであろうか。前述のとおり、阿佐布門徒は高田門徒・荒木門徒の流れを引いており、少なくとも鎌倉・南北朝時代に本願寺の創建・再建に奉加(ほうが)を寄せることはあれ、直接の本末関係を結ぶことはなかったと考えられる。しかし、文亀二年(一五〇二)に善福寺は本願寺実如から蓮如影像を下されたとされ、ここに蓮如への帰依と本願寺への帰属を窺うことができる。つまり、善福寺が本願寺と関わりをもった契機は、やはり山科本願寺に止住した蓮如による教化にあったのではなかろうか。さらに、天文二年(一五三三)に山科から大坂御坊に移った本願寺の門徒の中に「阿佐布衆」が見られ、北陸や紀伊の門徒と同様に、本願寺守護のため本寺に赴いた阿佐布門徒の姿があったことは注目される。
 本願寺と信長の戦闘は長期にわたり、その間に天正二年の伊勢長島一揆、同三年の朝倉氏滅亡後に越前を支配した一向一揆が、いずれも信長に敗北しており、同四年に至り信長は本願寺への兵粮の運入れを禁じ、その包囲網を急速に狭めていった。その中で本願寺を実質的に支えたのは、村上氏の後援を受けた毛利氏と、雑賀衆以下の紀伊門徒であったが、一度は成功した毛利氏による兵粮運搬も以後は途絶し、紀伊門徒は信長から直接の攻撃を受けて敗北した。苦境にあった本願寺顕如は各地の門徒に助力を求める書状を下しており、天正五年に「阿佐布善福寺御房」宛の書状には、「聖人(親鸞)へたいし報謝し奉る」ように求め、「兵粮馳走別して憑み入り候」として、兵力は困難であっても「兵粮」を送るよう依頼している(口絵10上)。また、本文書には「当国の太守と累年申し談する旨、あひかハらす本望に候」とあり、北条氏との交渉で、先述した「一向宗」禁制の解除はそのまま守られており、これは「本望」であるとしている。なお顕如書状には、坊官である下間賴龍が「阿佐布善福寺」に宛てた同趣旨の書状が副えられ(口絵10下)、毛利氏の動向も「調談の半」として、その画策がなされていることを含め、わざわざ善福寺に使者を下して伝えている。本願寺から使者により顕如書状と賴龍副状がもたらされ、その本文の敬語法と手厚い配慮から見て、本願寺にとって善福寺が東国末寺として重要な位置にあったことは確かであろう。
 さて、天正七年十二月、正親町天皇が信長の許に勅使を下し和睦を勧め、最終的に信長がそれを受諾して、翌八年三月、籠城衆の「惣赦免事」を始め、本願寺の開城の条件を掲げる起請文を提出した。また、顕如も「叡慮」に基づく和睦を受諾し、天正八年四月に、住持職を息教如(一五五八~一六一四)に譲り、自らは本願寺を退去して紀伊鷺森御坊に隠居した。しかし、「新門主」となった教如は、「当寺と信長と一和相調え候、さ候へは、彼方(信長)の表裏、眼前に候」として、信長の和睦を「表裏」ありと疑い、石山籠城を継続しようとの意思をもった(口絵11下)。最終的に信長は教如に対して、改めて退城をめぐる条件を記した起請文を送り、天正八年八月に教如は石山本願寺を退いて紀伊国雑賀(現在の和歌山市)に下り、ここに十年余にわたる石山合戦は終止符を打った。
 この終戦をめぐる混乱の渦中に、教如が善福寺等に送った書状が伝わる。天正八年閏三月二十四日に、「志として銀子五十両到来候、厚志ありかたく候」として、新門主となる教如に、善福寺から礼銀が送られており、継職の祝いに手厚く「銀子五十両」を送る立場にあったことが知られる(前掲口絵11下)。また、同年十月晦日には、「武蔵諸坊主衆中・同門徒中」に宛てた教如書状が善福寺に伝わる。本文書には、教如が同年七月に石山本願寺の開城を決定し、八月には紀伊国雑賀に移り当地に居住していること、顕如が紀伊国雑賀庄の鷺森に退去した後も、教如とは対立が続いており、武蔵国の門徒にはその働きかけがあっても与同せぬよう求め、さらに蓮如の説いた「仏恩報尽の称名念仏」に励むよう記されている。武蔵国の末寺坊主と門徒に送られた教如書状が、善福寺に送られ伝来していることは、同国の「一向宗」末寺・門徒のなかで、善福寺がその代表の立場にあったことを示すものであろう。
 了海を祖とする阿佐布門徒は、鎌倉後期より善福寺を拠点として門葉を広げたが、善福寺は室町中期における蓮如との交流を境として、成長を図りつつある本願寺の末寺となるとともに、武蔵国の末寺・門徒の中核的な立場を占め、「一向宗」には厳しい態度を示した北条氏の支配下にあって、「一向専修」の教えを守り続けたのである。