鎌倉の浄土宗

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 法然の教説は、鎌倉に生まれた武家社会において、積極的に受け容れられた。「法然上人行状絵図」巻二十五には、「勧化上都にさかりにして、道徳辺鄙にをよひしかは、鎌倉の二品禅尼[金剛戒、]帰依もともふかくして、蓮上房尊覚をつかひとして、念仏往生の事たつね申されたりけれは」とあるように、法然に帰依する二品禅尼(北条政子)の「念仏往生」をめぐる不審に、法然自身が懇篤な返書を記し送り、「念仏の功徳」として「返々専修念仏を現当のいのりとは申候へき也」と説いている。また、上野国の御家人大胡(おおご)隆義は、在京の折に自ら吉水(よしみず)の禅室に赴き、「上人の勧化(かんげ)」をうけて「念仏を信受」し、その不審には「和字」(平仮名交り文)での返書を受けている。同書の巻二十六によれば、武蔵国の御家人甘粕忠綱は、戦いに出陣するにあたり法然に「往生の素意」を尋ね、その教えのままに戦陣において戦死を遂げたという。さらに、下野国の御家人宇都宮頼綱は法然・證空(しょうくう)に従い「一向専念(いっこうせんじゅ)」の修行に励み、武蔵国の御家人熊谷直実の法然への熱心な帰依は広く知られている。この他に畠山重忠や結城朝光等、法然と接する機会を得て、その教えに帰依した鎌倉御家人は少なくない。
 法然に対して承元元年(一二〇七)に下された専修念仏の禁制は、直ちにその勅命が鎌倉に伝達され、幕府もその命に従い禁制を実行することになった。しかし、鎌倉に武家政権が成立した当初から「念仏者」による教化活動が見られるなかで、前述した北条政子や御家人の法然への帰依も生まれていたわけである。さらに承元の法難以降、鎌倉には「念仏者と称して黒衣を着するの輩」として、浄土宗の念仏行者に限定されぬ「黒衣」を着した多様な宗教者の活動もあり、念仏禁制も次第に空洞化するなかで浄土宗の多様な広がりが見られるようになった。
 法然が示寂(じじゃく)した後、その門葉は様々な場で活動の拠点を得て、各々の教説に基づき教化(きょうけ)を進めていた。その中で法然の教説を積極的に支持する「顕選択」を著し、山門衆徒の強訴(ごうそ)を受けて陸奥に流罪とされた隆寛は、東下途上の鎌倉にとどまって教化を続け、その門徒集団は鎌倉長楽寺・安養寺等を拠点とすることになった。また、弁長を始祖とする鎮西派の門徒集団のなかで、弟子の良忠は北条一族の帰依を受けて、鎌倉の光明寺(悟真寺)に拠った。さらに、長西(ちょうさい)の弟子道教(真阿)により、北条時頼を開基とする鎌倉浄光明寺が創建されている。
 ここで、鎌倉覚園寺(かくおんじ)に所蔵される「不断光明真言并に浄土宗等四宗興隆発願文写」に注目したい。正和三年(一三一四)に浄光明寺住持高恵を始め諸寺僧十三名が連署し、王法・仏法相依の思想のもとで天下太平・国土安寧を図るため、浄光明寺において「不断光明真言」の勤修(ごんしゅ)とともに、「浄土[諸行本願]・華厳・真言・律宗」の勧学院建立が発願された。ここで四宗の勧学院に共通して勤修される「不断光明真言」とは、西方密厳浄土への往生を実現する大日如来の真言である。そして勧学院の一院で修学される「浄土[諸行本願]」は長西が説いた「諸行本願義」(九品寺義(くほんじぎ))の教えであり、長西の門葉が浄光明寺を拠点にその教説の布弘(ふぐ)を図ったと思われる。しかし鎌倉後期において、浄光明寺は浄土宗のみならず、華厳・真言・律宗を含む四宗兼学の寺院としてあり、鎌倉における長西による「諸行本願義」の広がりの実態が窺われよう。
 このように鎌倉を中心にして、幕府による専修念仏の禁制という環境にありながら、浄土宗はこの地に発展の拠点を得て、東国において新たな展開を実現することになった。