鎌倉中期の東国で、「浄土宗」の伝播に重要な役割を果たした法然の門葉として、その直弟である親鸞と、直弟弁長の弟子良忠が挙げられる。親鸞は建保二年(一二一四)に常陸国に居を占め、文暦二年(一二三五)ころに東国より帰洛した後、弘長二年(一二六二)に示寂するまで京都にあって東国門徒への教化を続けた。一方、浄土宗第三世とされる良忠は、建長二年(一二五〇)ころに下総国に拠点を置き常陸・下野国内の教化を行った後、正嘉二年(一二五八)ころに鎌倉に入り、蓮花寺・光明寺(悟真寺)等に住持して、弘安十年(一二八七)に示寂した。親鸞と良忠は、いずれも常陸・下野国等で教化を行っているものの、その活動時期が重なっていたわけではない。しかし前述のとおり、親鸞は他の法然門葉が説く教えを強く意識し、自らの教説との区別性を強調して「浄土真宗」の教えを説いていた。
一方、記主禅師(きしゅぜんじ)と尊称された良忠は、道綽(どうじゃく)・善導の手になる「安楽集」「観経疏(かんぎょうしょ)」の注釈書としての「安楽集私記」「観経疏聞書」や、法然・弁長の著述の註釈書としての「選択伝弘決疑鈔(せんちゃくでんぐけつぎしょう)」「浄土宗要集聴書(じょうどしゅうようしゅうききがき)」等、さらに浄土門以外に「倶舎論(くしゃろん)宗要集」「釈摩訶衍論聞書(しゃくまかえんろんききがき)」等の聖道門(しょうどうもん)の著述を含め多くの聖教(しょうぎょう)を著してその尊称がある。
ここで、良忠がこれらの著述を撰述した場に目を向けたい。嘉禎三年(一二三七)良忠は筑紫天福寺において、師弁長の講説を記し「浄土宗要集」を撰述した。その奥書に、「嘉禎三年丁酉四月廿日午刻に終えるなり、天福寺において功を終う、御口筆なり、但し草案にして文体狼藉なり、後に書き直すべし、同聞衆 専阿・持願房・敬蓮社・信称房、執筆然阿(良忠)」(原漢文)とあり、「同聞衆」とともに弁長の講説を聴聞した内容を、良忠が「執筆(しゅひつ)」の立場で「口筆」(筆記)したものが「浄土宗要集」である。ただし本書は、弁長が撰述した「宗要六巻」に掲げられる浄土門の要諦「八十題」の「算題」(問題)について、その個々の「文義」(内容)を師弁長が「口授」し、それを「受者」たる良忠が筆記したものであるが、単に弁長の口説のみを記したというよりも、師僧が講説した内容を筆記し整序したものと言える。さらに文応元年(一二六〇)、良忠は師弁長の講説を記した「浄土宗要集」の中で、とくに師僧が重視した「師御口筆」を取りまとめた「浄土宗要集聴書」を撰述している。その中で良忠は、師弁長の教えを尊重しながらも、自らの解釈に基づく所説を加筆しており、ここに鎮西義が東国において個性的な展開を果たした実像を見ることができる。なお、「聴書」(聞書)とは講説の内容を筆記したものであるが、「浄土宗要集」や「浄土宗要集聴書」はいずれも、弁長と良忠が門葉への伝授という意図のもとに行われた講説を記した聖教であることに注目しておきたい。
良忠は親鸞に遅れて東国における教化を進めているが、親鸞から「他力のなかの自力」という批判を向けられた法然門葉を、良忠は我が事と思ったのではなかろうか。そして、良忠は「浄土宗行者用意問答」の「自力他力事」で親鸞への反論を試みている。まず、
先師上人(法然)・故上人(弁長)の御義を伝えて云、自力と云は聖道門なり、自(おのれ)の三学の力を憑(たのみ)て出離を求むる故なり、他力と云は浄土門なり、浄土を求むる人は、みな自の機分は出離するに能はすと知て、仏の他力を憑む故なり、爾(しか)るに近代の末学、浄土の行に自力・他力と云ことを立て、念仏にも又自力・他力を分別し、或は定・散二善を自力とし、念仏を他力とすといへり、故上人は仰せられさりし義なり、
とあるように、「近代の末学」として直接に親鸞の名は掲げぬものの、その教説について、法然・弁長の基本的な教えとは異なる「新義」として、厳しく批判を返しているのである。このように法然門下の祖師により、専修念仏の教えは個性的な内容を付加させながら教化が進められていたわけである。
さて、鎌倉の光明寺(悟真寺)を本寺として、良忠は多くの門下を輩出した。後に「記主門下六流」と称される良暁(白旗流)、性心(藤田流)、尊観(名越流)、道光(三条流)、礼阿(一条流)、慈心(木幡流)がその教えを継承することになるが、その中でも、「源空(法然) 聖光(弁長) 良忠 良暁 蓮勝 了実 了誉(聖冏) 酉誉(聖聡)」と相承される流れが白旗流(白旗派)と呼ばれ、弁長の鎮西流を継承する浄土宗の教団の中心をなし、増上寺第一世となる聖聡(しょうそう)はこの流れに連なる。