聖冏と「五重相伝」

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 浄土宗鎮西派白旗流に連なる了実は、延文三年(一三五八)佐竹義敦の外護をうけて常陸国瓜連(うりづら)郷に常福寺を創建した。この了実のもとに白石義光の息聖冏(しょうげい)が入寺し、後に師から付法を受けるとともに常福寺を譲られた。この聖冏は、中世における浄土宗中興を果たした人物として評価されるが、その理由として自ら膨大な著述を書き上げたことにとどまらず、それらを伝書(伝授に用いられる権威ある重書)となし、伝法という側面での体系化を果たしたことにあろう。
 常福寺にあって聖冏は、「七巻書」と呼ばれる「往生記投機鈔」(聖冏撰、一巻)、「領解授手印徹心鈔(りょうげじゅしゅいんてっしんしょう)」(聖冏撰、一巻)、「決答授手印疑問鈔(けっとうじゅしゅいんぎもんしょう)」(良忠撰、二巻)、「決答疑問銘心鈔」(聖冏撰、二巻)、「授手印伝心鈔」(聖冏撰、一巻)の七巻を、白旗派における伝法にあたっての重書と定めている。「七巻書」は聖冏自ら撰述した著述五巻に、良忠の著述二巻を加えたものである。さらに、「七巻書」に「往生記」(法然、一巻)、「末代念仏授手印」(弁長、一巻)、「領解末代念仏授手印鈔」(良忠、一巻)の「三巻」と、曇鸞(どんらん)撰述「往生論註」の「口授心伝」を加えたうえで、「五重指南目録」によりこれら「三巻七書」等の伝書を初重より第五重に分かち、この「五重相伝」により宗義の伝授を行うよう定めた。
 すなわち、初重に「往生記」、第二重に「末代念仏授手印」、第三重に「領解末代念仏授手印鈔」、第四重に「決答授手印疑問鈔」、第五重に「口授心伝」を配当し、初重から第四重の各々に、聖冏撰述の「往生記投機鈔」、「授手印伝心鈔」、「領解授手印徹心鈔」、「決答疑問銘心鈔」の四書を参照すべき疏釈(しょしゃく)(注釈書)と定めた。
 増上寺に所蔵される「領解末代念仏授手印抄」の奥書(原漢文)に、
 
  嘉禎三年八月三日、善導寺に於いて草これを記すの処、上人(弁長)親しくこれを見て合点し畢ぬ、沙門然阿[在御判、]此の中に安心の疑心、起行の疑心、後にこれを書き加うるなり、二には重々四句苦、能々心を留めこれを見明らむべきなり、
  右、第三重、記主上人の御製作に任せ、弟子聡誉に伝受せしめ已に畢ぬ、此の旨を守り弘通すべき処、件の如し、
    嘉吉二年[壬戌]五月一日                  明誉(花押)
 
とあるように、嘉禎三年(一二三七)良忠が弁長から本書を借用して書写し、師より要諦の箇所に合点を得て伝授された。増上寺に伝わる本書であるが、本文は聖聡の筆跡にかかり、第三重の伝書として聖冏から聖聡への伝授に用いられたものであり、さらに本書は嘉吉二年(一四四二)に明誉から弟子聡誉へ、大永四年(一五二四)に宏誉から弟子上誉へ、天文十一年(一五四二)には上誉から弟子観誉への伝授において授受・相承されている。なお、「決答授手印疑問鈔」巻下の奥書(原漢文)に、
 
  右、この書は、当流相伝の骨目なり、然るに今弟子聖聡、法器の仁たるに依り、此の第四重を授け已に畢んぬ、此の趣を守り弘通せらるべきの状、件の如し、
 
    明徳元[庚午]極月六日                了誉(聖冏)[満五十]在判
                             酉誉(聖聡)[廿二]
 
とあり、明徳元年(一三九〇)聖冏から聖聡に対して、「第四重」の伝書として授与されている。
 また、同じく増上寺に所蔵される、応永五年(一三九八)に聖冏が撰述した「授手印伝心抄」には、「将に此の末代念仏授手印を釈せんとするに、大いに分かちて二と為す、謂く、初めには大綱を釈し、次には義趣を弁ず、初の中に亦た分かちて二と為す、謂く、先ずは述作の由来門を明らめ、次には指授の奥旨門を示す、凡そ題名等の細尺は、宜しく決答疑問の伝を待つべしと云云」(原漢文)として、第二重の伝授にあたり「末代念仏授手印」について、「大綱」(要諦)と「義趣」(解説)の二面から解釈し、とくに「大綱」としては「述作の由来門」(撰述の経緯)と「指授の奥旨門」(伝授される秘説)を明らかに説いている。なお、「題名等の細尺」については、第四重の「決答授手印疑問鈔」の伝授を待つとしている。
 このように、初重から第五重まで伝書が配置され、それに従って白旗派における宗義の伝授がなされたが、この制度を聖冏が整えた意義は浄土宗教団にとってもきわめて大きい。そして、聖冏の注目すべき教学的な役割こそ、「三巻七書」(寛延四年上野大光院義海開版)に象徴される、浄土宗義に継承に用いられる伝書の整備にあったといえる。