聖聡の生涯とその教説

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 そこで、聖冏弟子で増上寺開山である酉誉(ゆうよ)上人(聖聡)の足跡を、後世の編纂(へんさん)物であるが『江戸名所図会』巻一「三縁山(さんえんざん)増上寺」項に見ておきたい。聖聡は鎮西派第八世として大蓮社との蓮社号をもち、貞治五年(一三六六)千葉氏胤を父に、新田氏を母として誕生した。幼少の時から出家の意思をもった聖聡は、九歳にして千葉寺に入寺したという。出家当初は密教を学び、後に聖冏を師に仰ぎ浄土宗に帰して、高い学識を積み、武蔵国貝塚の光明寺に止住した。『江戸名勝志』によれば、後に増上寺となる光明寺は、当初糀町(こうじまち)に所在しており、後に宗旨と寺号が改められ、浄土宗の三縁山増上寺となったとする。なお、聖聡は永享十二年(一四四〇)世寿(せじゅ)七十五にて往生を遂げたとするが、生没年ともに異説がある。
 ここで、聖聡の浄土宗義をめぐる教説について考えてみたい。まず、師聖冏の著述を一覧すると、伝授のために用いられる伝書、つまり祖師・先師の手になる聖教の疏釈にその特徴が見られる。また、聖冏が提示した「二蔵二教二頓教判」の体系を語る聖教として、永徳三年(一三八三)「聡生(聖聡)のためにこれを綴る」として、弟子聖聡のために編述された「浄土二蔵二教略頌」がある。本書は「釈迦・弥陀尊と証明の十方恒沙(じっぽうごうしゃ)の仏と、天親(てんじん)・流支(るし)と諸大士とに稽首したてまつる、遐代(かだい)を哀愍(あいみん)して真宗を弘めたまえ、難行と易行とは是二道なり、聖道と浄土とは是二門なり、声聞と菩薩とは是二蔵なり、一代の教門此に摂尽(しょうじん)す」(原漢文)との一〇行の偈頌(げじゅ)を冒頭に置いて、浄土宗義の要義を示す全一六六行の偈頌を掲げたものである。さらに、偈頌について詳細な典拠を掲げ私見を加えて注釈した「釈浄土二蔵頌義(しゃくじょうどにぞうじゅぎ)」の奥書(原漢文)には、
 
  時に至徳二年[乙丑]三月二日                末学了誉判[四十五歳]
  右は先聞を記すところなり、仍って弟子聖聡に授け、并に一校し畢ぬ、この旨を以て、勤学せしむべきの状、件の如し、
     同十月十四日                   鎮西末学了誉在御判
 
として、至徳二年(一三八五)に聖冏が、「先聞」を記したうえで「一校」を加えて自らの見解を記し弟子聖聡に授与しており、聖冏の弟子への強い期待と配慮が窺われよう。この「略頌(りゃくじゅ)」は、聖冏の知見と優れた表現能力に裏付けられており、親鸞の手になる「和讃」にも比肩するものと言えよう。また、偈頌をめぐる詳細な注釈についても、多くの典拠や先師の言説のみならず私見を加えており、個性的な伝授の媒体として充実した内容を備えていた。
 一方、聖聡の撰述した「大経直談要註記(だいきょうじぎだんようちゅうき)」「小経直談要註記」「往生礼讃私記見聞」等は、その書名に「直談」「見聞」とあるように、先師や自らが語る教説を記した著述である。たとえば、「小経直談要註記」巻八(『浄土宗全書』巻十三、原漢文)には、
 
  御本云く、時に永享七年[乙卯]文月日
     弁師(弁長) 七代弟子酉誉在御判[満七十一歳]
     筆受 行連社慶竺大誉房[満三十三歳]
今、此の御本は、大蓮社酉誉上人大和尚の御口筆、並びに筆受大誉和尚正本これを写し畢ぬ、
 
との奥書が見られ、本書は永享七年に聖聡による「小経」(阿弥陀経)の「御口筆」(講説)を、慶竺が「筆受」つまり筆録・再治のうえで授与されたものの写本である。その冒頭には、「来意分」として、「高祖の私記に云く、将に此の経を釈せんとすれば、略して四意有り、一は来意、二は専・雑、専にまた二有り、一には正定、二には助行なり、三は釈名、四は入門解釈なり[已上、祖師私記略抄、]初に来意とは、私記に細判無し、故に私に今綴りて云う、これに付きて總別有り、先ず總じては一代の教えの来意、次に別しては浄土門の来意なり」(原漢文)として、「高祖の私記」「祖師私記略抄」、つまり法然の著述によりながら、「阿弥陀経」を「釈」する体系を提示している。これは、聖聡が疏釈を撰述するにあたり、基本的な枠組みは先師・祖師の教説に依拠し、これに自らの見解を付加するという手法が見られる。つまり、「私勘じて云く」「私に問いて曰く」「私に勘じ加えて云く」等々の表現で私見を記述するが、ここで「法華科註に云く」「華厳経に云く」「涅槃経」等々の典拠を掲げその裏付けとする。「大経」(無量寿経)・「小経」という浄土宗義における中核的な経典について、詳細な典拠を掲げて論旨を通す聖聡の著述は、個性的な論理・表現による聖冏の著述とは異質のものといえよう。
 さらに聖聡は「武州豊島小石川談所、応永十五年[戊子]十一月十五日 幹縁比丘酉誉」との刊記を持つ「阿弥陀経」を版刻しており、すでに応永十五年には「小石川談所」を拠点として教化活動が進められていた。
 そしてその延長上に、増上寺における聖聡の著述に反映された浄土宗義の講説があり、その教説は弟子の聡誉(酉仰上人)・聖観(音誉上人)等に継承されることにより、東国における浄土宗の発展の基礎が固められたわけである。