今日に大伽藍を誇る増上寺であるが、『江戸名所図会』巻一「三縁山増上寺」には、開山聖聡の事跡とともに、寺の由緒が記されている。江戸時代に入ると、三縁山増上寺は関東における浄土宗の総本山の位置を占め、武蔵・上総・下総・常陸・上野・下野の各国に点在する十八檀林の筆頭として広大な寺域を擁した。十八檀林の「十八」とは、阿弥陀如来の四十八誓願のなかで第十八願を「最勝」とすることに由来する。そして、寺域内には「精舎十八区」が建立され、「栴檀林」つまり学寮において多くの英才を育むことになった。この学寮に学ばれ相承された「浄家の白旗流義」により、将軍家の子孫安寧と武運長久が祈願されたわけである。この将軍家に後援された檀林筆頭としての立場が、江戸時代以降に増上寺を大きく発展させた重要な要因であったことは言うまでもない。
また、前述のとおり、中世における増上寺の「浄刹」「浄家」(浄土宗寺院)としての開山は酉誉上人聖聡であるが、近世における中興は普光観智国師(存応)であった。当初貝塚にあった光明寺は、真言密教の道場として創建された古刹で、「一本寺なり、子院数多ありて」(「三縁山志」巻一)として一定の寺勢を誇っていた。至徳二年に本寺に入った聖聡は、了誉上人聖冏(伝通院三ヶ月上人)の教化のもとで宗風(しゅうふう)(宗旨)を真言宗から浄土宗に改め、三縁山増上寺と号したことは前述の通りである。そして、「三縁山志」巻一には、「明徳四[酉]年十二月、当山を興隆し、般舟蓮社の談法論場とし、四方の雲水をあつめ、輪下に講演し、自他宗の碩徳を招請し、不断法問の伽藍とす」とあるように、明徳四年より、増上寺は盛んな修学活動を行う道場として、浄土宗義の興隆を図ることになった。
なお、増上寺の寺域であるが、『江戸名所図会』巻一には、
当寺、旧古は貝塚の地にありて、光明寺と号せし真言瑜伽(ゆが)の密場にして、後小松院の御願に依て草創ありし古刹なりしに、至徳二年、酉誉上人移り住するの後、竟(つい)に了誉上人[伝通院三ヶ月/上人の事なり、]の徳化に帰し、寺を改めて三縁山増上寺と号し、宗風を転じて浄刹とす、[事跡合考に出せる三縁山歴代系譜に云く、当寺草創之地者、貝塚今糀町辺、中頃移于日比谷辺、後慶長初移于芝云々、日比谷より芝へ移りしハ慶長三年戊戌八月なり、武徳編年集成に、慶長三年戊戌、去る天正十八年辛卯、平川口へ移されし増上寺を、芝の地にうつすとあり、平川・日比谷、古へ地を接す、故に混していふ歟、]
とあり、「三縁山歴代系譜」等の典拠により当初は貝塚(糀町)にあり、至徳二年に聖聡が入寺して「浄刹」の増上寺が生まれた後、天正十八年(一五九〇)に糀町から日比谷の平川口に、さらに慶長三年(一五九八)に平川口から芝に移され今日に至ったことが知られる。
この増上寺がその寺格を高めたのは、世俗権力との関わりによる。長禄二年(一四五八)に関東管領上杉氏の家宰(かさい)太田道灌が江戸城を築き、増上寺三世の聖観(音誉上人)と交流をもった。増上寺に伝わる「音誉聖観和歌掛軸」には、道灌亭において聖観が詠んだ三首が掲げられており、両者の緊密な関わりを物語る。そして、文明二年(一四七〇)に後土御門天皇の祈願所となり、その寺格はさらに高まることになった。
この増上寺において、永禄六年(一五六三)第十代の住持感誉上人により「談義所壁書」(「増上寺文書」一〇号)が定められた。「三宝を帰敬の事」を冒頭に置き、寺僧の修学から生活の様々な場面での規制が掲げられ、規制を破る寺僧には「過料」が課された。この「壁書」から、寺内における寺僧集団の構成とともに、浄土宗義の修学の様が窺われる。なお「談義所」(談所)は、言うまでもなく浄土宗僧が宗義を学ぶための養成機関であり、「小石川談所」のように聖冏・聖聡の時代には整えられていた。
まず、増上寺の寺僧集団は、住寺僧と他寺僧(客僧)に大別される。寺外から浄土宗義を修学するために横入りした他寺僧が、寮に止住して日常的な法会に出仕し宗義修得に励むわけで、この寺僧集団の修学活動のなかに檀林筆頭となる増上寺の基本的な役割が見出される。とくに、他寺僧は国・部(寺)・寮・指南法眷、さらに「入寺之前後」により寺内で秩序づけられていた。そして、住寺僧・他寺僧を併せて増上寺に止住する寺僧集団は、大きく上座(老僧)と大衆(だいしゅ)に大別され、大衆は上座の指導を受ける立場におかれた。さらに、寺僧には修学の成果に基づく学階として「頌義(じゅぎ)」(釈浄土二蔵義)・「選択(せんちゃく)」(選択本願念仏集)・「小玄義」(観経玄義)等に細分され、たとえば「頌義三十巻」を読解した寺僧は、「選択」に昇進するという定めであった。
寺僧が修学する場は「談場(だんじょう)」と呼ばれ、「法門諍論」つまり宗義をめぐる問答を行い、「不審」の解明を通して宗義をめぐる各自の理解を深めた。また、年中行事として勤修される法会(ほうえ)(法儀)のなかでも、住寺僧・他寺僧を問わず、「安居(あんご)」(夏安居)への出仕は重要視されており、寺僧のなかから選任された月行事(つきぎょうじ)の指揮のもとで、寺僧集団が毎年一定の期間にわたり静謐を保ち修学に励むことになっていた。寺僧を取りまとめる月行事の配下に、同じく寺僧から選ばれた「勤行番」(当番)が諸堂の荘厳(しょうごん)を行い、とりわけ当番は毎月三度にわたる客殿に安置された法然御影の「開帳」を任務としていた。このように、住寺僧・他寺僧から構成される寺僧集団は、その多くが「寮坊主」に管理される寮に止住するとともに、寺内階層のなかで年﨟・学階に応じた一定の地位を与えられ、自らの立場に応じた修学と法会出仕を果たすことにより、増上寺の仏法興隆に寄与したわけである。
増上寺の寺格は、寺院社会において果たした「檀林」(談義所)としての役割によっても裏付けられ、その寺格は本寺・末寺を問わず修学を目的に止住した寺僧集団により支えられたことは言うまでもない。