天正十八年(一五九〇)、徳川家康は江戸に入り、時に増上寺は平川口(日比谷)に寺域を占めていた。家康の江戸入城にあたり、その行列を拝する人々の中に増上寺住持の観智(存応、一五四四~一六二〇)の姿も門前にあった。『徳川実紀』附録六によれば、存応に目を向けた家康はその名を問い、この僧が三河の菩提寺である大樹寺住持感応のもとにあったことを知った家康は、早速に増上寺で休息をとるとともに、翌日には再び足を運び、同寺を「菩提所」とするとともに、存応と「師檀の御契約」を結び、様々な供養を委ねることになった。しかし、平川口にあった増上寺は、「寺境隘狭にして、しかも大城に接近」するとの事情から、慶長三年(一五九八)に芝に寺域を移すことになった。その後、家康は「大いに資財を喜捨し、殿堂房室に至るまで悉く営建」して、慶長十年までに本堂・三門・経蔵・方丈・学寮等の主要な堂宇の造立を終え、「一宗の本山」としての威容を備えることになった。この芝の地に「最も広壮の大梵刹」としての増上寺が生まれることにより、「浄家の宗教、一時に勃興し、念仏の声天下に洋々たり」(『江戸名所図会』巻一)として、浄土宗の急速な隆盛がなされたのである。
さて、家康と「師檀」の関係を結んだ存応は、聖聡により「浄刹」とされた増上寺の「中興開山」とされた。慶長十五年に後陽成院より普光観智国師を勅賜(ちょくし)された存応は、天文十三年(一五四四)に由木利重息として武蔵国由木に生まれた。十八歳で出家を遂げ、天正十三年に増上寺第十一世の雲誉上人の室に入り、同十七年に同寺第十二世住持に就き、芝増上寺の建立に尽力した後、元和六年(一六二〇)世寿七十七歳にして往生を遂げた。
存応により中興された増上寺は、『江戸名所図会』巻一によれば、「数百戸の学寮は、畳々として軒端を輾(きし)り、支院は三十余宇、靡々(ひひ)として甍を連たり、三千余の大衆は、常にこゝに集まる、中にも能化(のうけ)は一代の法蔵を胸間に貯へ、所化(しょけ)ハ十二の教文を眼裡(がんり)に晒(さら)せり」とあり、多くの学寮・支院に止住するすぐれた「能化」「所化」は「三千余」を数えるとされ、ここに「関東浄刹の冠首」に相応しい規模の寺院に成長したわけである。なお「三縁山志」巻一に引用される、慶長十三年に増上寺源誉上人に下された後陽成天皇綸旨に、「武蔵国豊島郡増上寺を勅願所として、須く真宗の玄門を開き、宝祚無彊の丹棘(たんきょく)を祈り奉るべし者(てへり)、綸命此(かく)の如し」(原漢文)として、増上寺を改めて「勅願所」とし、「真宗」(浄土宗)による鎮護国家の祈りが命じられている。このように、将軍家の「菩提所」、公家の「勅願所」として、増上寺は高い寺格を保証されるとともに、とりわけ「大神君との宿契」「大神君の御再興」との由緒を拠り所にして、江戸時代を通して高い寺格を誇り、浄土宗の興隆を果たしたことは度々述べたとおりである。