将軍家菩提所としての増上寺で、その役割を象徴する堂宇として、元和二年に逝去した家康を供養するための安国殿が本堂西方に造立された。さらに、浄土宗が徳川家の「不変の御宗門」であるという由緒に基づき、二代将軍秀忠(台徳院)の御霊屋が寛永九年(一六三二)に寺内に造営された後、六代家宣(文昭院)、七代家継(有章院)、九代家重(惇信院)、十二代家慶(慎徳院)、十四代家茂(昭徳院)の歴代将軍家とその室の御霊屋が建ち並ぶことになった。
ところで家康の時代に、増上寺に「縁山三大蔵」と呼ばれる三部の大蔵経が寄進されている。「三縁山志」巻二には、
一本[宋本五千七百十四巻、/折本、輪蔵に入る、]此経は、本近江国伊香郡菅山寺の蔵本なり、慶長十八年、台命に依りて、両使[安藤帯刀重信、/本多上野介正純、]并に御代官[彦坂九兵衛]を以て仰せ出され御(たまい)、当山へ御置き納む、右の代として五拾石并に山林境内を賜う、(中略)
二本[元本五千三百九拾七巻、/折本、]
此経は、本伊豆国修善寺[禅家、]の蔵本なり、慶長十五[戌]年、台命に依りて当山に納む、右の代として四拾石の寺領を賜う、
三本[高麗本、六千四百六拾七巻、/綴本、]
此経は、本大和国忍辱山円成寺の什本なり、慶長十四酉年三月十四日、台命に依り、南都一乗院宮の指麾を以て、蓮花院・遍照院を總代僧として当山に納む、其代として百五拾石の御朱印を賜へり、[此朝鮮本は、京建仁寺の本と当本計りにて、他国他寺に類なし、]
として、宋版・元版・高麗版三部の大蔵経(一切経)が増上寺に帰した来歴が記されている(原漢文)。いずれも家康の命のもとに、諸寺に伝わった大蔵経が増上寺に納められたものである。まず、大和国円成寺(えんじょうじ)に伝来した高麗版大蔵経は、慶長十四年(一六〇九)に家康の命を受けた興福寺一乗院門跡が間に入り増上寺にもたらされ、その代償として一五〇石の朱印地が円成寺に寄進されている。次いで慶長十五年には、伊豆国修善寺に所蔵された元版一切経が、四〇石の「寺領」を代償に増上寺に納められ、さらに同十七年には近江国菅山寺に伝わった宋版一切経が、幕府からの使者の手で、「五拾石并に山林境内」を寄進する代わりに増上寺に運ばれた。このように、家康は由緒ある大蔵経(一切経)を所蔵する諸寺を探し出し、拒否しがたい「台命(たいめい)」を下し、その代わりに寺領を寄進することにより、増上寺に貴重な経を納めており、ここにも「菩提所」への深い配慮を見て取ることができよう。
家康が増上寺を将軍家菩提所とするに至った理由は、その立場に相応しい寺格にあった。その撰定にあたって、「落穂集」巻二に、「浄土宗に然るべき寺と申しては、増上寺・伝通院と申して二ヶ寺これ有り、其の内伝通院の義は、古跡にはこれ有り候へ共、其所柄、一向の在所にて御座候、増上寺は、前は海、後は山を抱え、殊の外景地にもこれ有り。其の上江戸の城へも程近くこれ有り」として、聖聡の師たる聖冏を開山とする伝通院と、聖聡を祖とする増上寺が、いずれも浄土宗鎮西派白旗流を伝える由緒ある「浄刹」としてあったが、その立地上の条件から増上寺が選ばれたという。そして、白旗派の拠点寺院として、室町時代より「檀林」(談義所)としてあった増上寺は、家康の全面的な外護を享受することになり、同寺が以後の浄土宗教団の中核として、また将軍家菩提所として幕府の宗教政策に深く関わりをもち、浄土宗興隆を支えた。 (永村 眞)