中世の人々は、故人の追善や、自身の現世での平安と来世での安寧を祈る逆修(ぎゃくしゅ)供養を行い、多くの供養塔婆が造立された。なかでも石造の塔婆を石塔という。その多くは宝塔や五輪塔、宝篋印塔(ほうきょういんとう)といった形だが、関東地方では板碑(いたび)と呼ばれる石塔が好んで造立された。その数は、関東地方だけでもおよそ五万基ともいわれており、なかでも埼玉県には二万七〇〇〇基を超える数の造立があった。
中世石塔に使用される岩石は多様で、凝灰岩や安山岩、砂岩などの地元で産出する石材が用いられるが、板碑の場合、緑泥片岩(緑泥石片岩)という結晶片岩が用いられた。そしてとくに、関東地方に濃密に分布する緑泥片岩製の板碑を「武蔵型板碑」と呼んでいる。
ところで、板碑という名称は学術用語であり、造立当時の呼称は明らかでない。しかし、銘文中に青石塔婆・塔婆・浮図(ふと)・石廟などの文言が散見できることから、そうした名称で呼ばれていたのであろう。さらに、江戸時代になると石仏・板仏・古墳・板碑などと呼ばれるようになるが、それは時代の経過とともに板碑の供養塔婆としての機能が忘却されたため、名称も変化したと考えられる。