板碑のかたち

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 板碑の形は他の中世石塔と異なる。五輪塔や宝篋印塔が、複数の部材を組み合わせて立体的に造形するのに対して、板碑は扁平な一材から作り出されている。このため、板碑は正面の一方向からのみ拝することを意識しているといえる。その形は頭部・塔身部・基部に分けて説明される(図3-3-1)。頭部は山形に作り、頭部と塔身部の間には二条線を刻む(刻まれないものも多い)。また、二条線下に額と呼ぶ突帯をあらわすものもある。塔身部は枠線で画され、その上方部には本尊を配置し、下方部には紀年や人名、造立趣旨などの銘文が刻まれる。人名は法名(戒名)や俗名であらわされる。また、本尊を荘厳する天蓋や花瓶、三具足、前机などの仏具や、偈文(げもん)(経典や仏書などから引用した詩句)、真言があらわされることもある。
 本尊は種子(仏菩薩をあらわす梵字)や図像であらわされることが多い。とくに、阿弥陀種子(キリーク)や図像を一尊や三尊であらわすものが全体の八割以上を占めており、当時の人々の阿弥陀如来に対する篤い信仰を物語る。また、「南無阿弥陀仏」などの名号や「南無妙法蓮華経」などの題目を本尊とするものは、名号板碑や題目板碑と呼ばれる。こと板碑に関しては、本尊とした仏菩薩からその信仰の背景にある宗派を推定することは困難であるが、名号板碑と題目板碑に関しては、例外はあるものの特定の教団による造立と考えられ、前者は時衆(時宗)や初期の浄土真宗によるもので、後者は日蓮教団(日蓮宗)による造塔と理解されている。
 

図3-3-1 板碑模式図


 
 港区は武蔵型板碑の分布圏に含まれており、区内の板碑はほぼ武蔵型板碑である。その本尊は、阿弥陀一尊種子と同三尊種子(キリーク・サ・サク)が九割を占め、ほかに釈迦種子(バク)が二基ある。また、題目板碑と名号板碑も一基ずつ確認できる。
 題目板碑は、覚林寺(白金台)に嘉元年(一三〇三~一三〇六)銘板碑が所在した。近隣の目黒区・大田区には題目板碑が多く現存している。目黒区には円融寺(現在は天台宗だが、元は法華寺という日蓮宗寺院)、大田区には本門寺のように日蓮教団の拠点となる古刹があり、こうした寺院を中心に分布が広がる。また、鎌倉期の題目板碑は全国的に見ても現存数が少なく、港区域への教線伸長を考える上で、覚林寺の板碑は希少なものであった。
 一方、名号板碑は題目板碑以上に偏在する傾向が強く、都区部では足立区に多く分布している。俊朝寺(虎ノ門)の観応二年(一三五一)銘板碑は、銘文から円阿の供養のために造立されたものである(口絵16)。とくに、名号の書体が草書体であることは注目される。草書体の名号板碑は、もとより基数が少なく、都内では立川市やあきる野市など、多摩地方の中央部にまとまった分布が見られる。俊朝寺の板碑は、近代になって区外から持ち込まれたものであり、当該地域からの移設の可能性が指摘できよう。かつて、拝島領宮沢村阿弥陀寺(現在の東京都昭島市)背後の山には、観応二年銘の名号板碑が存したことが『新編武蔵風土記稿』『武蔵名勝図会』などに見える。これには円阿の法名が刻まれていたともあり、本板碑との一致が強く注意され、故地であった可能性が高い。
 区内でみられる板碑はきわめて簡素で、蓮座以外の荘厳はほとんどみられない。花瓶がわずかに刻まれる程度で、天蓋や三具足等をあらわすものは確認できない。蓮座や花瓶の形状や彫法には、時代性と地域性が色濃く反映されており、板碑の年代や分布域を判断する手掛かりとなる。
 偈文は「法華経」や「浄土三部経」などからの引用が多く、とりわけ「観無量寿経」からの「光明遍照偈」は頻出する。真言ではとくに「光明真言」が多く使用される。しかし、区内において偈文や真言を刻む板碑は現存していない。