ところで、港区内にはどれほどの数の板碑があったのだろうか。『芝区誌』(一九三八)には亀塚稲荷神社(三田)の五基が記されるのみである。一方、『麻布区史』(一九四一)には二一基の板碑が掲出されている。この『麻布区史』の記述を下敷きに戦後に編さんされた『港区史』(一九六〇)では、芝区分として亀塚稲荷神社の板碑を加えたものを、港区の板碑として記載している。このように、それまで港区では板碑の本格的な調査がなされなかった。
それは、港区が江戸時代以来、多くの寺社や大名屋敷が創建、移転してくるなど、早くから開発が進んできた地域であることも関係している。都市計画という大規模な地域開発が推し進められたことで、急速に中世の痕跡が失われていったものと考えられる。さらに、震災や戦災による被害もあって伝存する板碑は少ない。こうしたことが、板碑に対する関心が高揚しなかった要因の一つといえるだろう。
やがて、昭和四十八年度(一九七三年度)から五十年度にかけて、東京都板碑調査団(団長千々和実)が組織されると、都内全域の板碑所在調査が実施された。それは破片も細大漏らさぬ悉皆的なもので、七八七三基が記録された。その後、平成元年(一九八九)の千々和到による集計では九六一六基に増加しており、今日、その数は一万基を大きく超えるものと考えられている。
東京都板碑所在調査では、福岡精一が地域担当者として港区分を担当した。それまで福岡は、文化財調査委員として区内の金石文(きんせきぶん)調査を担当しており、他の委員(難波治吉・森崎次郎等)と連名で『港区の文化財』に成果を報告してきた。その成果が、東京都の調査でも活用されたようで、『東京都板碑所在目録』に掲出された一七基の板碑は、氏の実査に基づいた情報を中心としたものであった。ただし、『麻布区史』で紹介された板碑の多くは戦災等で失われて確認できなかったようで、目録にはほとんど含まれていない。そのため、過去の文献などをもとに逸亡分を加えると、その数は四〇基以上に及ぶ。さらに近年では、遺跡の発掘調査で新たな資料の出土があり、その数は少しずつ増加している。
現在、こうした状況の中で、天徳寺(虎ノ門)、亀塚稲荷神社、個人蔵(教育委員会寄託)、光明寺(虎ノ門)の板碑が港区の指定・登録文化財となっている。