板碑の造立傾向

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 さて今日、最古の武蔵型板碑として埼玉県熊谷市の嘉禄三年(一二二七)銘板碑が知られる。また、都内最古の資料として宝治二年(一二四八)銘板碑(墨田区正福寺、図3-3-2)がある。都内では宝治二年以後、徐々に板碑が造立され、文永・弘安期(一二六四~一二八八)には広い地域で板碑の造立が始まる。やがて、時代の経過とともにその数は増加してゆく。一四世紀半ばごろには造立数がピークを迎えるものの、まもなく減少傾向へと転じる。しかし、一五世紀になると再び増加傾向となり、一五世紀半ばごろに二度目のピークを迎える。やがて、再び造立は減少傾向へと転じ、一六世紀半ば以降には、ごく一部の地域を除いて造立がみられなくなり、江戸時代になると武蔵型板碑は消滅する(図3-3-3)。
 これまで、板碑消滅の要因について、①徳川家康の関東入国による政治的変化、②板碑製作を担っていた石工が、城下町に集住させられたことによる影響、③板碑形式の近世墓標への転化、④近世墓標の出現によって木製塔婆が主流となったため、⑤位牌の出現、などの諸説が提示されているが、いまだに定説をみない。さらに、武蔵型板碑が流通した地域では、他の石塔も一五八〇年代を境に寛永期(一六二四~一六 四四)までの間、ほとんど造立が確認できず、板碑だけの問題とは言い難い。やがて、板碑の機能は近世石造物へと取って代わる。なかでも豪奢な意匠をもつ近世宝篋印塔や、近世墓標の中でも最古の形態に属する「板碑型墓標」などは、その源流を西日本などに求める研究もある。つまり、板碑に代わる石塔が近世初頭に関東地方へもたらされ、やがて広く受容されていった。その結果、近世には中世以上に石塔造立の文化が花開くのである。しかし、こうした変化の過程や理由については、ほとんど明らかになっていない。このような石塔を取り巻く様々な課題は、政治的・社会的背景の変化や仏教史全体を見据えながら、究明される必要があろう。
 

図3-3-2 宝治2年銘阿弥陀一尊種子板碑(墨田区・正福寺)

図3-3-3 東京都内の板碑の造立傾向