これまで、板碑消滅の要因について、①徳川家康の関東入国による政治的変化、②板碑製作を担っていた石工が、城下町に集住させられたことによる影響、③板碑形式の近世墓標への転化、④近世墓標の出現によって木製塔婆が主流となったため、⑤位牌の出現、などの諸説が提示されているが、いまだに定説をみない。さらに、武蔵型板碑が流通した地域では、他の石塔も一五八〇年代を境に寛永期(一六二四~一六 四四)までの間、ほとんど造立が確認できず、板碑だけの問題とは言い難い。やがて、板碑の機能は近世石造物へと取って代わる。なかでも豪奢な意匠をもつ近世宝篋印塔や、近世墓標の中でも最古の形態に属する「板碑型墓標」などは、その源流を西日本などに求める研究もある。つまり、板碑に代わる石塔が近世初頭に関東地方へもたらされ、やがて広く受容されていった。その結果、近世には中世以上に石塔造立の文化が花開くのである。しかし、こうした変化の過程や理由については、ほとんど明らかになっていない。このような石塔を取り巻く様々な課題は、政治的・社会的背景の変化や仏教史全体を見据えながら、究明される必要があろう。
図3-3-2 宝治2年銘阿弥陀一尊種子板碑(墨田区・正福寺)
図3-3-3 東京都内の板碑の造立傾向