港区における板碑の造立

295 ~ 297 / 323ページ
 ところで、区内でもっとも古い板碑は、亀塚稲荷神社の文永三年(一二六六)銘阿弥陀一尊種子板碑とされてきた(図3-3-4、向かって左から二番目)。本板碑の年号を文永と判読するのは『芝区誌』以来のことで、今日までそれが踏襲されてきた。しかし、本板碑を一三世紀後半の所産とするには疑問点が多い。板碑の大きさはもちろん、種子や蓮座の形状、さらに銘文配列のいずれもが時代の特徴と合致せず、むしろ一四世紀中ごろのものと理解できる。それは同所に立つ他の四基と比べてみても良く似ている。はたして銘文を確認すると、文和三年(一三五四)と読めそうである。そのため残念ながら、本板碑を区内に所在する最古の板碑とすることは難しい。なお、かつて威徳寺(赤坂)には文永十二年(一二七五)銘板碑が所在したようで(『武蔵国集碑録』)、これが記録上確認できる区内の最古例である。つまり、現存するものとしては、今のところ、天徳寺の永仁六年(一二九八)銘板碑が最古といえる(口絵15)。それに嘉元年銘板碑(善福寺寺域跡遺跡)などが続く。
 こうした区内での造立傾向を示したものが図3-3-5である。集計に際しては、区外からの移入が明らかな資料を除外し、現在失われた資料は過去の記録をもとにした。港区における板碑の造立は、文永十二年から天文十一年(一五四二)までの約二七〇年間に及ぶが、その推移は一定でない。
 一二七〇年代から一三四〇年代に向けて造立数は増加していくものの、その後、一転して低調となる。ところが一五世紀になると増加傾向へと転じ、一五世紀半ばごろには再び隆盛を迎える。しかし、まもなく基数を減じ、一六世紀になるとほとんどみられなくなる。集計した基数自体がきわめて少ないものの、板碑造立の開始時期と推移は、都内の傾向とほぼ同じである。
 

図3-3-4 亀塚稲荷神社の板碑群

図3-3-5 港区内の板碑の造立傾向
出土資料(善福寺寺域跡遺跡・麻布龍土町町屋跡遺跡)を含む