出現期から一四世紀までの板碑は、武士階層や僧侶による造立が銘文から窺え、主に父母二親など故人の菩提を弔う追善供養、または逆修供養を目的としている。やがて一五世紀半ば以降になると、板碑造立の風習は民衆にまで広がっていく。そして、それまで追善や逆修が中心であった中に、民間信仰の証しという新たな目的が加わった。月待(つきまち)や庚申待(こうしんまち)などの村落における年中行事がそれで、月待は特定の月齢(十五日や二十三日など)の月の出を待つ行事で、息災長寿や五穀豊穣を祈り、あるいはその年の豊作を祝して神仏に報謝する。また、庚申待は、庚申の晩を寝ずにすごして参会者の長寿を祈る、庚申信仰に基づく行事で、守庚申(しゅこうしん)や申待(さるまち)とも呼ばれた。村落の人々は結衆(けっしゅ)して、こうした民俗行事を執行し、その結願(けちがん)として月待板碑や庚申待板碑を造立した。その銘文には結衆の名前が交名(きょうみょう)として刻まれており、中世の村落結合を考えるうえで重要な史料となる。信仰行事が盛んに催され、民間信仰板碑が造立された背景には、動乱が続く社会の中で宗教者が人々の求心力となる教化活動を行い、民衆は彼らに結縁(けちえん)することで救済を求めたことにある。さらに、信仰行事を共にすることで、村落内の結合をより強固なものとする動きがあったと考えられている。
区内の板碑には銘文が少なく、一四世紀代まで具体的な人名は見られない。やがて一五世紀になると、被供養者銘を刻むものが出現する。しかし、これらの人名はいずれも法名(戒名)で、人物比定は難しい。そのため、被供養者の社会的立場も明らかでないが、おそらくは地域領主や有徳人(うとくにん)、「長者」と呼ばれた人々のような、地域の有力者と考えられる。このような中で、昭和初年に善福寺(元麻布)境内から出土した長禄三年(一四五九)銘板碑は興味深い。それは「妙心童子」の供養のために造立したものだが、一般的に「童子」は出家、得度していない人物の法名に付けられる位号のひとつで、七歳から十五歳ごろに死去した男子と考えられる。中世における子どもの死亡率は高かったようで、成人と同等の供養が行われることは稀だったであろう。それが、子どもを供養した板碑が少ない原因とも考えられるが、そのなかで本板碑は特別といってもよい。つまり、妙心童子は麻布地域における有力者の子ども、とりわけ嫡子など特別に期待された人物と推測される。子どもの早世は、両親に大きな悲しみを与えたであろうが、それにとどまらず生前の妙心童子に対する期待と彼の置かれていた社会的立場が、板碑の造顕としてあらわれているのではないか。
さらに一五世紀半ば以降になると、文明年(一四六九~一四八七)銘念仏供養板碑(渋谷区長泉寺)、文明十年(一四七八)銘月待供養板碑(品川区個人)など、近隣区でも民間信仰板碑の造立がみられる。区内では、かつて宝瑞院(虎ノ門)境内から、天文十一年(一五四二)十一月銘庚申待板碑が出土したという(「三猿塔」)。宝瑞院の庚申待板碑は、本尊や造立者などの詳細は不明ながら、現在知られる中で区内最新の板碑である。