板碑には江戸時代後期以来、多くの人々が関心を寄せ、地誌や随筆などに記述してきた。幕府が各寺社に提出を命じた「寺社書上」には、由緒を裏付ける証拠、あるいは寺社の什宝(じゅうほう)として多くの板碑が書き留められた。『御府内寺社備考』には善福寺や長伝寺(元麻布)の板碑が記録されている。善福寺の板碑は、明和九年(一七七二)の本堂焼失時に後山から出土した七基が図示されている。この板碑群には、嘉祥二年(八四九)、元慶二年(八七八)、延長二年(九二四)、応保元年(一一六一)等の古代の年号を刻むものも含まれていた。そのため、その真偽も含めて世上の関心を引き、『集古一滴』『武蔵野古物』にも記され、報恩講などの開帳時には当寺の什宝として参詣者へ展観された(『東都歳事記』)。その後、近代になっても善福寺境内からは板碑の出土が報告されている。これまで当寺では、逸亡分も含めて約三〇基の板碑が確認されている。この数は区内の板碑の七割以上を占めていることとなり、区内でも屈指の板碑密集地といえる。さらに北側の善福寺寺域跡遺跡では中世の遺構が確認され、多数の遺物とともに板碑が出土していることから、かつてここには中世墓地が形成されていた可能性もあろう。さらに長伝寺は善福寺の近隣にあたり、その境内からも板碑の出土があったことから、中世墓地は台地の南縁に広く展開していたと推定される。
ほかにも、飯倉四つ辻道路の拡張工事で数基の板碑が出土しており(『麻布区史』刊行時には所在不明)、近年では、麻布龍土町町屋跡遺跡からも破片ながら板碑の出土が報告されている。
このように、区内には出土した板碑がある一方で、区外から移入された資料もある。亀塚稲荷神社の板碑五基は、品川区上大崎付近から移設されたという(『芝区誌』)。俊朝寺の名号板碑は、先々代の住職の代に持ち込まれた。梅窓院(南青山)の板碑は埼玉県杉戸町からの移入を伝え、光明寺の板碑も近代になって区外からもたらされたものであろう。
こうした板碑の移動は様々な理由によるものであろうが、江戸時代以来、頻繁に確認できることで、また区内の寺社に限ったことではない。そして従来、このような板碑は地域に根差した資料でないとして等閑視されてきた。確かに、他所から移動してきた資料をもとに港区の中世を物語ることはできない。しかし、このように移動してきた板碑も、やがて新たな言説とともに地域の中に組み込まれ、寺社や地域の歴史の一部となっていく。「板碑の移動」という資料の伝来過程・来歴を踏まえることで、地域の近・現代史を物語る資料となるのであり、捨象することなくきちんと認識して評価する必要があるのではないだろうか。さらに、そのためにも地域の中で大切に守り伝えていくことが求められるのであろう。 (伊藤宏之)