城下町の分節構造と都市江戸

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 近世は、今日につながる都市が作られた「都市の時代」であった(吉田 一九九二)。将軍や大名などが政治・経済を集中させるために計画的につくった城下町と、商品流通の発展によって成長した在方町(渡辺 一九九九)は、ともに共通する社会のしくみや文化をもった。こうした中で、江戸は、最大の城下町であった。
 近世の城下町は、豊臣政権の兵農分離政策による諸大名の家臣の城下町集住政策によって誕生した。そして、元和元年(一六一五)の一国一城令による一大名一城の原則や、諸大名の転入封を繰り返す中で確立し、人口の増大も経てほぼ一八世紀初頭までに空間的な拡大を終えた。幕府・藩主導でインフラが整備された城下には、城の防衛や城内の役所に出仕して政務・行政を担う武士が集住するほか、武士に武具・食料や生活物資を供給するために商人や職人が誘致された。また国家・領域の護持と都市住民の祈禱や菩提を弔うため、寺社が集められた。さらに、都市にはいわゆる士農工商にあてはまらない宗教者や芸能者などさまざまな身分の人びと(身分的周縁)が村落以上に存在し、集団として展開した場合もあった。
 このようにして創出された城下町は、城郭を核として、武家、町人、僧侶・神職、武家奉公人、えた・非人といった出自の異なる身分の人びとを統合して成立した。人びとは、武家地、寺社地、町人地、奉公人の居住地、かわた町村など身分ごとに居住空間を与えられ、それぞれの社会を構成していた。治安維持やインフラの維持などもそれぞれの社会で担われた。ただし、武家・寺社・町人の社会は孤立していたわけではなく、町人が武家や寺社と経済的な関係を結ぶなど、相互に関係して成り立っていることから、「分節的構造」と捉えられている(吉田 一九九五)。
 築城を許されない小大名や参勤交代を行う大身の旗本(交代寄合)の陣屋を核とした町(陣屋元村)や、外様大藩の有力家臣の本拠なども城下町と同じ都市の類型として捉えられる。また、一七世紀末以降「三箇(さんが)の津」(のち「三都」)と称された巨大都市江戸・京都・大坂、ほか伏見・駿府は、いずれも幕府が直轄都市としたが、城郭を中核とした同様の分節構造をとった点で、これらも城下町の性格を持つ都市とみることができる。
 江戸の場合は、将軍の居所であるとともに、幕府がおかれる、いわば首都であったがゆえ、評定所など幕府の役所もそなえた巨大な城が中核に存在した。この江戸城を除き、武家地は全面積の約七〇パーセント、僧侶・神職が寺院・神社をかまえた寺社地、町人が住む町人地がそれぞれ約一五パーセントを占めた。一方、武家人口は町人人口とほぼ同数と推定されており、町人が狭い空間で密集して住んでいたことがうかがえる。他の城下町でも同様に、武家地は城下町の面積の六~七割を占めていた。
 城下町の中で、江戸は、幕府の城下町として幕臣をかかえるとともに、参勤交代制の確立を契機として諸大名の屋敷が設けられ、やがて最大の都市に成長した。江戸では、こうした巨大な大名屋敷や寺院が核になって成立する社会(藩邸社会・寺院社会)が重複しながら存在していた。江戸は、朝廷や公家町が存在する京都、各藩の蔵屋敷が存在する大坂とともに複雑な社会構造を持つ巨大城下町であった。近世の港区域は、こうした巨大城下町江戸の江戸城外堀の南側から近郊農村にまたがっていた。