すでに自然編で明らかにされているように、港区域は東側が東京湾に接する沖積平野、西側が武蔵野台地の縁辺にあたり、大きく地形が異なっている。赤坂地区・麻布地区は西から延びる台地を擁する「山の手」にあたり、芝地区・高輪地区のうち、とくに東側は低地で江戸湾に面していた。
では、都市化の進行が落ち着いた一八世紀以降の港区域の地域ごとの様子をみておこう(図-序-1-1・表-序-1-1 「御府内備考」「町方書上」)。なお、江戸時代の地名の境界は明確ではないため、図-序-1-1には、おおよその位置を示した。
赤坂地区は、溜池から台地部分にあたっており、江戸時代には東が赤坂、西が青山と呼ばれた。溜池に面したところのほか、低地部分に町人地や幕府の御家人の組屋敷があり、主に台地には大名の比較的大きな江戸屋敷があった(郡上八幡青山家の下屋敷〈一部が現在の青山霊園〉、紀州藩徳川家の中屋敷〈一部が現在の迎賓館赤坂離宮〉など)。
麻布地区は、江戸時代には西側は麻布、東側は飯倉と呼ばれ、多くが台地部分にあたる。南限がおおよそ古川、西限が主に笄川(現在の聖心女子大学東側の道)、東限が増上寺のある台地の西側の西久保通り(現在の桜田通り)である。飯倉の内の西久保は、現在は西久保通りの西側が麻布地区、東側が芝地区となっている。一八世紀以降は、台地上に武家屋敷があり、また台地の尾根上と台地の狭間の低地部分や、開削された古川のほとりに町人地があった。
芝地区は、西側が台地、東側が低地で、外堀より南が愛宕下(古称は桜田〈「御府内備考」〉)、増上寺の西側が西久保、増上寺の東側で古川より北にあたる地域、および東海道沿いのおおよそ高輪大木戸までが芝、古川より南が三田と呼ばれた。芝のうち、とくに海岸部には芝浦・金杉、増上寺と青松寺の間の坂道には芝切通(きりどおし)という地名があった。愛宕下は、大名の上屋敷・中屋敷と幕臣の屋敷が集中した。一方、芝には増上寺・愛宕権現社(現在の愛宕神社)・芝神明宮(飯倉神明宮、現在の芝大神宮)をはじめとする大規模な寺社、三田には中小寺院からなる寺町が展開した。また、芝の東側の低地部分には、東海道が南北に通貫して日本橋・京橋地域から町人地が延伸し、並行して西久保通り沿いにも町人地が展開した。西久保通りと六本木道(現在の外苑東通り)の交差点は「西久保四辻」と呼ばれる繁華街であった。このほか、海沿いでは、芝浦・金杉で魚問屋などが集住し、また武家屋敷も所在した。
図-序-1-1 港区域の現行五地区・地形と近世の地域名
『港区史』(1960年)掲載図をもとに作成
表-序-1-1 港区域のおおまかな地域概念と近世編の掲載箇所
高輪地区は、古川沿いと湾岸の低地のほか、大半が台地で構成される。高輪の湾岸の低地部分には、東海道沿いに南の品川宿に向けて町人地が連続した。伊皿子・二本榎から高輪にかけての台地には泉岳寺や東禅寺などの寺院や武家屋敷が展開した。一方、白金は百姓地が多くを占め、こうした中に大名の下屋敷や大名などが百姓地を購入して構えた抱(かかえ)屋敷、白金大通(現在の目黒通り)沿いに町人地が存在した。
このように、江戸中心部からの距離と、地形によって、都市化、市街地化のありように地域差が生じた点が、近世の港区域の特色といえる。 (岩淵令治)