近世編の概要

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 以上の点を前提に、近世編では、六つの章をたてた。
 一章「都市開発と災害」では、一七世紀の港区域において人びとが活動していく場が作られていった過程を明らかにする。まず一節では、江戸図や絵画史料を素材として、地形の改変をともなった都市の拡大過程を、地域や地目に留意しながら詳細にみていく。とくに平成一九年(二〇〇七)に発見された「寛永江戸全図」(臼杵市教育委員会所蔵)についてはこれまで部分的には用いられてきたが、今回は港区域という広域をはじめて検討したものである。つづく二節では、考古学より低地・海浜部の埋め立てや高台の造成を明らかにし、さらに具体的な遺構にもとづいて上下水道の様相も紹介する。そして、三節では、こうした自然の改変によって成立した人為的自然のもとで、人びとが経験した災害をとりあげ、コラムでは遺跡で確認された災害の痕跡を紹介する。
 つづく二章「武家地」、三章「寺社地」、四章「町人地・百姓地」では、分節構造論にもとづき、それぞれの地目ごとに港区域の社会をみていく。
 二章「武家地」では、まず一節で大名屋敷をとりあげる。全体を概観したうえで、とくに地形や江戸城との距離を考慮して六か所の屋敷を例として選び、国元に遺された各藩の史料(藩政史料)を駆使して、屋敷内部の様相や周辺社会との関係、藩士の生活、幕末の政治状況と江戸屋敷の終焉を明らかにする。コラムでは、幕末に愛宕山から撮影されたパノラマ写真から、武家地の景観をみる。つづいて、二節では、旗本・御家人屋敷について、全体の傾向をみたうえで、三節で芝地区の愛宕下地域をとりあげ、その所持者の変遷と居住者の実態を詳細にみていく。さらに四節では、より広域の赤坂地域について、武家地全体をとりあげ、内部の様子、外部社会との関係、火災の被害などの具体的な様相をみていく。そして五節では、武家屋敷跡の発掘調査の成果として、海浜部に造営された大名屋敷と台地に造営された大名屋敷、上級旗本・下級旗本の屋敷の事例を紹介する。
 三章「寺社地」では、まず一節で近世における宗教のありようを宗教文化と捉え、幕府の政策の基調もみる。つづく二節では、港区域における寺院の組織と制度を検討し、寺院が特定宗派に限定されず、各宗派の触頭寺院も多く存在すること、また檀家が武士から庶民に広がる寺院の例などを明らかにしている。コラムでは、港区域の特徴の一つとして、大名や大名家臣の菩提寺の例をあげる。三節では、巨大寺院として増上寺をとりあげ、将軍家の霊廟から山内寺院などに至る広大な境内空間を現存建築も含めてみていく。次に四節では神社について、赤坂氷川社・麻布氷川社・芝神明宮・愛宕権現社といった有名な社、町中の宗教者として修験、そして町中の稲荷をとりあげる。さらに、五節では現存する寺社建築を題材に、武家の菩提寺の境内の特色や、寺社が身分を超えて信仰を集めたことを明らかにする。そして六節では、考古学の成果によって寺院境内や墓所の実態を示し、コラムでは、発掘された人骨の分析からわかる江戸時代人の骨格を紹介する。
 四章以降は、近世編の下巻に収録する。
 四章「町人地・百姓地」では、まず町人地をとりあげる。一節では、港区域の町人地を概観したうえで、町の記録より町の運営をみる。さらに、町の自治と町奉行所をつなぐ要となった名主の職務をみていく。また、コラムでは名主の日記から、港区域内の激動する幕末維新の様相を紹介する。つづく二節では、住民の中でも地主をとりあげる。土地台帳の図面(沽券図)から地域による土地の値段や売買状況の差異をみたのち、港区域の特徴として武家の所持した町屋敷(拝領町屋敷)に注目し、また現在の山梨県に居住した豪農による赤坂地域の貸地・貸家経営(町屋敷経営)の実情を明らかにする。三節では庶民をとりあげ、拝領町屋敷の人別帳、町の転入簿(人別送の記録)、寺社門前町の絵図と記録から、住民の居住空間や生業、移動などをみていく。また、コラムでは明治初年の古写真から門前町の景観を紹介する。四節では、町人地で展開した商工業について、大店の例として三井越後屋の支店(芝口店)、明治初年の鉄道敷設の記録から東海道沿いの住民の多様な生業、引札や商標より庶民の店を、また主に愛宕下地域における武家地の消費を支えた久保町をとりあげる。コラムでは大名の江戸屋敷の出入職人を紹介する。五節では百姓地をとりあげ、武家の土地取得などから百姓地の都市化をみた上で、隣接した町人地との農作物の取引から町村境界地域の特徴を明らかにし、さらに広域の村の結合を紹介する。最後の六節では町人地の発掘調査の成果から、拝領町屋敷、東海道沿いの町をとりあげ、また大名の江戸屋敷のゴミが廃棄されていることや、鋳造業、漁業の痕跡を紹介する。
 五章では江戸時代の文化を、六章では幕末の港区域をとりあげる。
 まず五章「文化」では、まず一節で、浮世絵を産み出す場として芝神明前に注目する。女流絵師山崎女龍や歌川派が芝神明前を拠点に活動し、歌川派の絵師が挿絵を手がけた黄表紙の作家や、浮世絵や黄表紙の出版を手がけた本屋も芝神明前に集中したこと、その背景として、芝神明前が土産物購入の場であったことをあげる。つづく二節では、港区域内で行われた年中行事と祭礼をみる。祭礼については、氏子町の出し物を用いた付祭によって華麗となった赤坂氷川祭と麻布氷川祭という二つの大型祭礼と、芝神明祭を検討する。三節では、信仰と娯楽をとりあげる。信仰については、港区域における寺社参詣と名所について巡拝ルートや千社札、花見、泉岳寺の名所化、願掛け、信仰組織としての講の組織と活動、絵馬の奉納、盛り場としての芝神明宮の展開を描く。四節では寺社の興行について、神仏の開帳や富くじを検討する。五節では、港区域内の手習塾と大名の江戸屋敷内にあった藩校を概観したうえで、幕臣山本家が幕末に開いた手習塾を例としてみていく。また、章末のコラムでは、現在の新潟県新発田市から用務で江戸に半年間滞在した村役人の日記から、地方からの来訪者が港区域に向けたまなざしをみる。
 六章「幕末」では、幕末期の港区域について、地域社会に大きな影響を与えたものとして、嘉永六年(一八五三)のペリー艦隊来航後に江戸防衛のために設けられた江戸湾の台場造営と、安政五年(一八五八)以降の各国との修好通商条約締結後に設けられていった外国公館をとりあげる。まず、一節では、幕末の海防体制と、江戸および近郊地域の臨時警備体制を概観し、港区域の江戸湾岸の大名屋敷の警備の状況をみる。そのうえで、台場造営の計画の経緯と、実際の構築資材が江戸近郊の地域社会の能力に依存して調達されたことを明らかにし、コラムでは第五台場と品川区内の第一台場の発掘調査の成果を紹介する。さらに、大名屋敷も組み込んだ台場建設後の江戸湾の警備体制を明らかにし、コラムでは実際に警備にあたった長州藩士の行動を日記と小遣帳から明らかにする。二節では、港区域に外交官が駐在することになった経緯と理由を明らかにする。そのうえで、外国人が港区域の中で生活し、また周辺の町に遊興に出かけることで、港区域の人びとがさまざまな接触・交流を経験し、また外国人襲撃事件の発生と警備の強化を目の当たりにしていくことを描く。
 このように、近世編はテーマ別構成をとっている。ご関心のあるところからお読みいただければ幸いである。また、刊行予定である資料編のほか、すでに刊行されている区史誌や、町人地の基礎史料である「町方書上」をまとめた港区立みなと図書館編『江戸町方書上 文政のまちのようす』(一九九三~一九九六)、土地利用の変遷を地図から追った港区立港郷土資料館編『港区近代沿革図集』(二〇〇六~二〇一一増補)もあわせてご参照いただきたい。  (岩淵令治)