港区の動向

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 港区では昭和五七年(一九八二)、近世遺跡の調査・研究史上欠くことのできない重要な発掘調査が相次いで実施された。旧芝離宮庭園遺跡(No.21)と越後長岡藩主牧野家墓所の発掘調査である。
 旧芝離宮庭園遺跡の調査は、江戸の大名屋敷跡を対象とする初めての発掘調査で、上水木樋や屋敷境界付近に構築された石垣などの遺構とともに、多種多量の近世遺物が発見された(旧芝離宮庭園調査団編 一九八八)。中でも、江戸時代の最高級磁器である鍋島藩窯製品(鍋島焼)と、多量の漆器は注目された。破片資料を含む約三〇〇〇点の漆器を、理化学的手法により保存処理を行ったことは画期的なことであった(北野 二〇〇五)。
 一方、港区三田四丁目の周光山済海寺に造営された越後長岡藩主牧野家墓所の調査は、同家による墓所改葬をきっかけとして一四基の墓を対象に精査されたもので、江戸に造営された大名墓の在り方が明らかにされた(東京都港区教育委員会編 一九八六)。
 以後、出羽米沢藩上杉家・豊後臼杵藩稲葉家屋敷跡遺跡(No.32、旧郵政省飯倉分館構内遺跡)、増上寺子院群-光学院・貞松院跡 源興院跡-(No.22-1・2)のような公共事業に伴う発掘調査に留まらず、芝神谷町町屋跡遺跡(No.16、後に芝神谷町町屋跡第1遺跡〈No.16-1〉)や港区No.19遺跡のような民間企業による開発事業等に伴う近世遺跡の発掘調査が断続的に行われるようになった(髙山 一九九四)。
 昭和六〇年代に入ると、港区のみならず周辺の自治体でも、近世遺跡の調査・研究が盛んに行われるようになる。東京都教育委員会は東京都心部遺跡分布調査団を組織し、近世=江戸の遺跡分布調査を行った。成果として『東京都心部遺跡分布調査報告 都心部の遺跡--貝塚・古墳・江戸』を刊行したのは昭和六〇年三月のことで、三年後の昭和六三年には、東京都教育委員会が港区をはじめ、千代田区・中央区・新宿区・文京区・台東区・墨田区とともに「江戸遺跡」の取り扱いについて検討を始めている。
 また、昭和六三年度から平成元年度は、港区内における遺跡発掘調査の様子が大きく変化した時期にもなった。市街地再開発事業の進行により、調査面積が五千平方メートルを超す大規模調査が増加する。平成三年(一九九一)に始まり、足掛け一〇年を費やして行われた汐留遺跡(播磨龍野藩脇坂家・陸奥仙台藩伊達家・陸奥会津藩保科家屋敷跡遺跡〈No.98〉および縄文時代の包蔵地〈港区No.118遺跡〉の総称)の発掘調査は、その象徴といえる。
 ところで、遺跡の取り扱い方は経済動向に左右されることが多いが、港区では今日に至るまで調査件数に極端な増減はない。ことに、平成二三年三月一一日の東日本大震災、ならびに東京オリンピック・パラリンピックの開催決定は、平成二〇年代に入り再び活発となった大規模な市街地再開発事業の進展を促し、これに伴う発掘調査が間断なく進められている現状にある。
 さて、遺跡発掘調査は港区の近世史研究にさまざまな興味深い知見や情報をもたらしている。発掘調査の成果が報告書等によって公開されるまでには時間を要するが、港区域の近世のまちの様子や人びとの活動の諸相が、より精緻に、かつ立体的に再構成されつつある。しかし一方で、遺跡発掘調査の進展が、加速度的に進んでいる遺跡そのものの消失と不可分であることを見過ごしてはならない。  (高山優)