江戸の範囲と港区域

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 近世後期の江戸は人口一〇〇万人を突破していたと考えられ、世界最大級の都市であった。市街地の範囲は直径一〇キロメートルの円を超えるほどに拡がっていた。文政(ぶんせい)元年(一八一八)、幕府は初めて江戸の範囲を公式に確定し、絵図上に朱色の線(朱引(しゅびき)線)を引き、その内側を「朱引内」(御府内(ごふない))とした(変死・迷子掲示の取り扱い範囲、および寺社による寄附集めの許可範囲に相当)。これは、東は亀戸、北は小塚原・尾久・板橋、西は角筈(つのはず)・代々木、南は品川に及ぶ広範囲なものであった。
 これとは別に江戸町奉行の管轄範囲を示した境界線を墨引(すみびき)というが、これは朱引より一まわり小さい範囲(ただし中目黒村・下目黒村内の町場は例外的に朱引外にもかかわらず墨引内であった)に該当する。これは現在のJR山手線と都営大江戸線環状部分の範囲をイメージするとおおむね近い。
 以上の範囲を示したものが図1-1-1-1である。現在の港区域をグレーの網掛けで重ねると、これらは全て朱引内(御府内)・墨引内に位置していることがわかる。江戸城下町は郭内(外堀と隅田川で囲まれる範囲)を中心としてしだいに外側へと拡大を続けてきたが、郭外南部の大部分を占める港区域の変遷を追うことは、巨大都市江戸の南方への開発過程を知ることにほかならない。そこで本項では江戸図(江戸の全体、あるいは一部の様子を視覚的に表現した絵図)を素材として、一七世紀における港区域の空間的変容を分析してみたい。

図1-1-1-1 「旧江戸朱引内図」
東京都公文書館所蔵 一部加筆