港区域の分析に入る前に、一七世紀までの江戸城と江戸の町の建設過程について簡単に見ておこう。
天正一八年(一五九〇)、豊臣秀吉の命により遠江浜松から転封された徳川家康は、北条氏の有力な支城であった江戸城に入る。家康はこの新たな拠点を二五〇万石の城下町にふさわしい都市へと改造すべく、城と城下町の建設に着手する。江戸城は太田道灌(どうかん)以来の城の位置を基本的に継承したが、まず家康は本丸部分を拡張整備し、ついで文禄元年(一五九二)には隠居城としての西丸(にしのまる)を造営した。
北条氏時代の江戸城の東には、日比谷入江とよばれる干潟が広がっており、対岸には江戸前島という半島が延びていた。家康は入国後ほどなく、この半島の付け根部分に道三堀とよばれる運河を建設し、物資の輸送ルートを確保する。
慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の戦いに勝利した家康は、同八年(一六〇三)に征夷大将軍に就任し、江戸は幕府の拠点として天下普請(諸大名に命じて行わせる土木工事のこと)の対象となる。まず城北東の神田山が切り開かれ、その土で低湿地が埋め立てられて市街地が造成された。江戸城の普請は藤堂高虎(一五五六~一六三〇)の縄張りにより慶長一一年(一六〇六)に開始され、二丸・三丸の拡張と本丸御殿の造営が行われた。翌年には五層の天守も完成する。
江戸城の普請は二代将軍徳川秀忠・三代将軍徳川家光の時代にも続けられ、特に寛永六年(一六二九)からの普請では内郭の枡形が完成し、さらに同一三年(一六三六)からの普請では江戸城西北部の外堀が建造され、同一七年(一六四〇)に半世紀にわたって続けられた江戸城の工事もようやく完成を迎えるのである。
城下町のゾーニングはおおむね地形によって規定され、台地上に武家屋敷が、外郭に寺社地が、東部の低地に町人地が立地するという構成であった。寛永一二年(一六三五)に正式に制度化された参勤交代は、江戸の市街地のさらなる拡大を促すことになる。本項で見る寛永末年(一六四二~一六四三)の「寛永江戸全図」は、大きくスプロール化した江戸の姿をわれわれに示してくれる。その後寛文期(一六六一~一六七三)にかけて市街地は高密度化し、江戸の基礎的骨格はおおむね完成することになるのである。
以上の点を念頭において、いよいよ港区域の変遷を絵図から辿(たど)ってみることにしよう。なお、本項で取り上げる図は、便宜上、全て北を上に改めている。