武州豊嶋郡江戸庄図

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 江戸を描いた最古級の絵図としては、ともに慶長一二~一四年(一六〇七~一六〇九)頃の景観年代とされる「江戸始図(えどはじめず)」(松江歴史館所蔵)、「慶長江戸絵図」(東京都立中央図書館所蔵)などが知られているが、これらの描写範囲は郭内よりもさらに一まわり小さい内堀までの範囲(御曲輪(くるわ)内)にとどまっており、その外側については残念ながら分からない。
 港区域を描いた最古の絵図となると、寛永九年(一六三二)頃の江戸図である『武州豊嶋郡江戸庄図(ぶしゅうとしまごおりえどのしょうず)』(図1-1-1-2 以下『江戸庄図』)となる。これは木板で印刷された絵図で、それゆえ模刻・改刻・復刻などによってさまざまな図が作成され現存するが(一覧については飯田・俵 一九八八を参照)、国立国会図書館所蔵本(国立国会図書館デジタルコレクションでも閲覧可)がそれらの原図に相当するという(黒田 二〇一〇)。以下、この国立国会図書館所蔵本を見てみよう。
 絵図の寸法は縦九七〇ミリメートル、横一二九〇ミリメートルである。原図は西を上にした構図で(本稿では北を上にして掲載)、江戸城を大きく描き、北は神田川付近、西は千鳥ヶ淵・半蔵濠付近、南は増上寺付近、東は江戸湾までを含めている。

図1-1-1-2 『武州豊嶋郡江戸庄図』港区部分
国立国会図書館デジタルコレクションから転載 一部加筆


 港区域に当たるのは図の左側、溜池-外堀よりも南側で、愛宕(あたご)下の武家屋敷が詳細に描かれている(記載人名については二項で詳しく見たい)。図1-1-1-2の左端には「そうじやう寺」、すなわち増上寺の文字が見える〈2-①〉(図1-1-1-2中の番号①を示す、以下同様)ので、ここが本図の描写範囲の南限になる。
 東海道は日本橋を起点として中橋、京橋を経て南に続き、新橋〈2-②〉以南も街道の両側に町並みが続いていることがわかる。また新橋南詰からは外堀に沿って西にも町人地が続いている。こちらは片側町となっている。
 江戸湾沿いは後に大名下屋敷・中屋敷が建ち並ぶことになるエリアであるが、この時点では信濃飯田藩脇坂家(五万五〇〇〇石)〈2-③〉と伊予松山藩加藤家(二〇万石)〈2-④〉の二屋敷が見えるのみで、両屋敷の間は葦原らしき描写がなされ、「御たかば」〈2-⑤〉との記載が見える(現在の汐留付近)。このあたりは江戸の原風景を想起させるものといえる。
 次に画面の左上に目を転じると、こちらは絵画的な表現がなされている。丘陵部には愛宕権現(あたごごんげん)〈2-⑥〉や広岳院(こうがくいん)(のちに移転)〈2-⑦〉、泉岳寺(せんがくじ)(同上)〈2-⑧〉、「れいなん」(東禅寺(とうぜんじ)、同上)〈2-⑨〉などの寺社の名前が見える。位置関係からすると西久保(現在の虎ノ門の一帯)から麻布を描いたものと考えられるが、この時期はまだこのエリアは開発が進展していなかったことがうかがえる。
 溜池は慶長一一年(一六〇六)に完成した人工池で、当時はまだ水質も良好であったようで、「江戸すいとうノみなかみ(水道の水上)」〈2-⑩〉という記述が見える(上水については、本章二節三項参照)。その南側に「やかた町あり」〈2-⑪〉と記述されているのは赤坂付近であろうか、残念ながら具体的な人名の記載はされていない。