寛永江戸全図

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 ここまでの絵図類は江戸の一部分を絵画化・図化したものであり、当時の都市域の拡がりは断片的にしか判明しない。これに対し、近年金行信輔によって発見された、大分県臼杵(うすき)市教育委員会所蔵の「寛永江戸全図」は、寛永末の江戸の全体像を知る上で非常に重要な史料であるといえる(図1-1-1-4)。寸法は縦三一〇〇ミリメートル、横二六五〇ミリメートルという大規模なもので、描写内容はきわめて精密である。金行の考証によれば、その景観年代は寛永一九年(一六四二)一一月から翌二〇年(一六四三)九月までの間に絞り込め、おそらく寛永一九年(一六四二)から行われた江戸の屋敷調査のために作成されたものと推定されるという(金行 二〇〇六)。屋敷拝領者名が細部にわたって悉皆(しっかい)的に記録され、江戸の全体がカバーされているという描写のありようは、このことと大いに整合的である。
 本図の描写範囲は、北は浅草・日暮里・駒込・王子、西は板橋・雑司ヶ谷(ぞうしがや)・角筈(現在の東京都新宿区新宿、西新宿)・代々木、南は渋谷・白金・品川あたりまで及んでおり、寛永末という時点で江戸はすでにJR山手線のループを超えるまでに拡張していたことがわかる。
 以下では港区域について詳しく見ていこう。先述の『江戸庄図』や「江戸図屛風」と比較すると、都市の開発は一〇年ほどの間に急速に進展していることがわかる。例えば汐留の、かつて鷹場の葦原が拡がっていたエリアには大名下屋敷が造成されており〈4-①〉、その間には芝新銭座(寛永一五年〈一六三八〉設立、寛永通宝を鋳造)〈4-②〉も形成されている。このエリアの造成に関する考古学的成果については本章二節を参照されたい。

図1-1-1-4 「寛永江戸全図」港区部分
臼杵市教育委員会所蔵 一部加筆


 その南方の芝浦では、「寛永江戸全図」段階での町並みは東海道に沿って「大仏」(如来寺)〈4-③〉門前まで連続していたことが見て取れる。なお高輪〈4-④〉南部はこの時点では「畠」の文字が見えるばかりで、未だ農村的景観をとどめていたと考えられる。
 東海道から少し陸地側に目を移すと、三田には比較的規模の大きい大名屋敷が並んでいるのが目に付く。現在明らかになっているなかでは、寛永五年(一六二八)八月二二日に土佐藩山内家(二〇万二六〇〇石)の下屋敷〈4-⑤〉が竣工したという記録が最も古く(「御当家年代略記」)、この前後から開発がなされていたと考えられる。
 その南側には功運寺をはじめとして寺院が集中する一帯が見える。これが三田寺町(現在の三田四丁目)〈4-⑥〉である。本節三項で後述するように、この寺町は寛永一二年(一六三五)以降に主として八丁堀からの移転によって形成されたものであった。その南東には、『江戸庄図』や「江戸図屛風」では麻布の丘陵地に描かれていた泉岳寺〈4-⑦〉や「霊南」(東禅寺)〈4-⑧〉が移転してきていることも確認できる(東禅寺は寛永一三年〈一六三六〉、泉岳寺は同一八年〈一六四一〉に移転)。
 続いて西側の麻布を見ると、『江戸庄図』や「江戸図屛風」では林が覆う丘陵地帯として描かれていたこの地が武家屋敷地(主として大名屋敷)として開発されていることがわかる。愛宕下や芝とは異なり屋敷地の輪郭に曲線が目に付くのは複雑な地形を反映しているためと考えられ、やはりここでも高台を選ぶかたちで敷地が選定されていることが読み取れる。なお麻布の武家屋敷には黒丸が付されているものが多いが、凡例によればこれは地子下屋敷(じししもやしき)、すなわち抱屋敷(かかえやしき)であることを示すという。これも百姓地がしだいに屋敷地として開発されていった過程を現している。
 赤坂も地形的には複雑で、台地と谷とが入り組んでいる。ここも三田と同様に地形に対応した開発がなされており、台地上には大名屋敷(先述の「やかた町」か)と寺町〈4-⑨〉が、溜池と弁天堀沿いには町人地がそれぞれ形成され、それ以外の谷間の低湿地は未開発の田圃(たんぼ)のままであったことが読み取れる。広島藩浅野家(四二万六五〇〇石)下屋敷〈4-⑩〉(二章四節一項参照)は元和六年(一六二〇)の拝領と伝え(「侯爵浅野家回答」)、「江戸図屛風」の溜池端に描かれる武家屋敷の一つはあるいはこれに相当するものかもしれない。
 浅野家下屋敷から谷を隔てた西側には、御三家である尾張藩徳川家(六一万九五〇〇石)下屋敷〈4-⑪〉、紀州藩徳川家(五五万五〇〇〇石)下屋敷(後の中屋敷)〈4-⑫〉が続く。紀州藩赤坂屋敷は徳川頼宣が寛永九年(一六三二)七月二六日に拝領したもので、以後順次拡張され同家の江戸での拠点となっていく(土田 一九九三 二章一節二項参照)。
 この屋敷の南側には常陸(ひたち)江戸崎藩青山家のかなり大規模な下屋敷〈4-⑬〉が続いている。これは天正一八年(一五九〇)に青山忠成(ただなり)が馬を一円に乗り回し、その範囲を家康から拝領したという伝承をもつ屋敷であり(「御府内備考」巻七〇)、当時は忠成四男の幸成(よしなり)(大蔵、摂津尼崎藩五万石)が継承していた。実際に絵図に見られる茫漠とした屋敷の拡がりは、家康の江戸入り当初の郊外における大雑把な屋敷の給賜をうかがわせる。
 以上のように本図からは、寛永末年までには港区内の芝・三田・麻布・赤坂にかけてかなり都市化が進展していたことが見て取れる。一方、絵図をよく見ると三田・麻布・白金付近には、集落らしき茅葺民家の集合が絵画的に描かれていることもわかる〈4-⑭~⑰〉。これはおそらく三田村・阿佐布(麻布)村・白金村(現在の白金一~六丁目、白金台一・三丁目ほか)の集落にあたると考えられ、巨大化する江戸に呑み込まれる前の既存村落の姿を、ここに見ることができるのである。