明暦江戸大絵図

51 ~ 54 / 499ページ
 次に見たいのは三井文庫所蔵の「明暦江戸大絵図」(原題「江戸大絵図 明暦」)である(図1-1-1-5)。これも江戸全体を描いた、縦二九〇〇ミリメートル、横一九八〇ミリメートルの大判の絵図で、小林信也の考証によれば、景観年代は明暦(めいれき)三年(一六五七)末から明暦四年(万治元・一六五八)初頭と考えられ(一部明暦三年〈一六五七〉末以前の変化を反映していない部分もある)、紀州徳川家の関与により作成され、幕府により使用されたと推定されるという(小林 二〇〇七)。明暦三年の正月一八~二〇日の連続火災(明暦の大火)で江戸の中心部の大半が焼失しているので、本図はこの大火後の状況を示す貴重な絵図であるといえる。

図1-1-1-5 「明暦江戸大絵図」港区部分
公益財団法人三井文庫所蔵 一部加筆


 絵図の描写範囲は、北は浅草・上野・駒込・大塚、西は早稲田・新宿・代々木・渋谷、南は目黒・品川までをカバーし、さらに東の隅田川を越えた本所・深川の一部も含んでおり、江戸の拡張のさらなる進展を見ることができる。
 では港区域では、「寛永江戸全図」の時代と比べてどのような変化が見られるだろうか。まず愛宕下から見ていこう。ここは明暦の大火の第三の火災(正月一九日)に見舞われて潰滅したエリアである。ここの東側を見ると「明」(空地)と記された屋敷地が五筆ほど見え〈5-①〉、これについては大火被災にともなう屋敷移転をうかがわせる。しかし全体として見ると、「寛永江戸全図」あるいは後述の「万治年間江戸測量図」と比較しても基本的な骨格に変化は見られず、人名もおおむね共通している。大火後は現地での再建を行うというのが基本線であったのだろう。
 明暦の大火の被害は増上寺の学寮と子院にも及んだというが、伽藍(がらん)や霊廟(れいびょう)は無事で、このあたりが類焼地の南限であったとみられる。大火を免れた南部の高輪・麻布ではその後は大名の郊外邸としての下屋敷の建設がいっそう進んでいくことになる。本図で注目されるのは「望」と付された屋敷地で、現在の高輪台駅南北付近に「藤堂大学望」「九鬼式部望屋敷」、麻布に「水野日向望地」「松平山城望地」の記載が見える〈5-②~⑤〉。これは本節二項で述べるように、大名が下屋敷を拝領するのに先だってその希望地を挙げたものであろう。高輪南部にも、人名の記載はないものの四至(しいし)(四方の境界)が薄い直線で描かれた敷地がいくつか確認でき、開発途上の様子が見て取れる。既存の村落については、「寛永江戸全図」にはあった三田村の集落の記載が本図では見えないものの、白金村の集落はなお絵画的に描かれている〈5-⑥〉。その集落の南、現在の目黒通りに相当する街道沿いには「茶や」と記された線形の町場が断続的に見られる〈5-⑦〉。これは慶安四年(一六五一)に起立した白金台町(現在の白金台一・三~五丁目、白金二丁目ほか)であろう。
 次に赤坂における変化としては、いわゆる赤坂築地の開発の端緒を見ることができる。先述のとおり、「寛永江戸全図」の段階では台地上の浅野家下屋敷と寺町の周辺は低湿地で田圃が広がっていたが(図1-1-1-4)、「明暦江戸大絵図」ではここに直線的な街路が通されて区画にも「明地」と記されている〈5-⑧〉。これは、旗本屋敷の不足をうけて、幕府が承応(じょうおう)二年(一六五三)に開発に着手した屋敷地の一つで、低湿地や海浜を埋め立てて形成したことから「築地」と呼ばれた。絵図ではすでに五筆の武士の名前を確認することができるが、ここからは赤坂築地でも屋敷地の区画整備が終わり、少しずつ旗本たちへの屋敷の給賜が始まりつつあった段階を読み取ることができる。