では港区域について見ていこう。測量範囲は伊皿子(いさらご)坂-魚籃坂(ぎょらんざか)-麻布本村町-麻布桜田町-麻布龍土(りゅうど)町-青山権田原(ごんだわら)までに限られ、これより南側・西側の状況は不明である。また増上寺の南東部分には図に大きな損傷があり判読不能な部分がある。これらの欠点にもかかわらず、幕府公式の実測図としての本図はそれを補う貴重な情報を提供してくれる史料と言える。以下、本図から読み取れる港区域の開発状況について整理する。
愛宕下から芝浦にかけては沿岸部の埋め立てによる大名屋敷の建設が若干進んだほかは大きな変化は見られない。その南側には三田寺町が確認できる〈6-①〉。この寺町は「寛永江戸全図」の段階でもすでに形をなしていたが、その後もいくつかの寺院が移転してきて、近世の三田寺町はこの段階でほぼ完成を迎えたといえる(本節三項参照)。
図1-1-1-6 「万治年間江戸測量図」港区部分
公益財団法人三井文庫所蔵 一部加筆
「寛永江戸全図」「明暦江戸大絵図」との大きな違いは新堀川(現在の古川)沿いの低湿地の開発である。ここは「増上寺之後之田」と呼ばれ、先述の赤坂築地と同様に承応二年(一六五三)から屋敷地の造成が始まったところであった。「明暦江戸大絵図」の段階では田圃の広がる未開発地のままであったが、「万治年間江戸測量図」では田圃が半減し、大名屋敷が形成されてきていることを見ることができる〈6-②〉。赤坂築地の方は、「明暦江戸大絵図」の段階で造成されていた区画が旗本屋敷で充塡(じゅうてん)されており、田畑はすでに消滅している〈6-③〉。また麻布の丘陵地帯についても全体的に密度が高まっており、都市化が進展していることがわかる。