万治年間江戸測量図

54 ~ 56 / 499ページ
 明暦の大火直後の明暦三年(一六五七)一月二七日、幕府は江戸の復旧のために大目付の北條正房(ほうじょうまさふさ)、新番頭の渡辺綱貞(つなさだ)に江戸の総絵図の作成を命じている。これにより完成したのが現在三井文庫に所蔵される「万治年間江戸測量図」である(図1-1-1-6、口絵2)。本図は単円筒図法(円筒形のスクリーンをかぶせて地物を投影する図法)にもとづいて作図された江戸全体の実測図であり(秋岡 一九六五)、周辺部の歪みが大きかったそれ以前の江戸大絵図と比較して格段に精度が高く、後述する『寛文五枚図』の基礎となった図であるとされる。寸法は縦三二〇〇ミリメートル、横四一六〇ミリメートルという巨大なものであったが、図化される範囲は特に西側と南側の郊外については「寛永江戸全図」「明暦江戸大絵図」よりも狭く、また本所・深川も含まれていない。本図の年代について飯田龍一らは万治元年(一六五八)としているが(飯田・俵 一九八八)、屋敷地の人名を検討する限りではそれよりも下る。本図に反映されている情報には、最も新しいもので延宝九年(天和元・一六八一)の移動が含まれるが、全体として見ると、おおむね寛文二~三年(一六六二~一六六三)頃の情報をベースとしており、ごく一部にそれ以後の変動を反映したものと考えられる。
 では港区域について見ていこう。測量範囲は伊皿子(いさらご)坂-魚籃坂(ぎょらんざか)-麻布本村町-麻布桜田町-麻布龍土(りゅうど)町-青山権田原(ごんだわら)までに限られ、これより南側・西側の状況は不明である。また増上寺の南東部分には図に大きな損傷があり判読不能な部分がある。これらの欠点にもかかわらず、幕府公式の実測図としての本図はそれを補う貴重な情報を提供してくれる史料と言える。以下、本図から読み取れる港区域の開発状況について整理する。
 愛宕下から芝浦にかけては沿岸部の埋め立てによる大名屋敷の建設が若干進んだほかは大きな変化は見られない。その南側には三田寺町が確認できる〈6-①〉。この寺町は「寛永江戸全図」の段階でもすでに形をなしていたが、その後もいくつかの寺院が移転してきて、近世の三田寺町はこの段階でほぼ完成を迎えたといえる(本節三項参照)。

図1-1-1-6 「万治年間江戸測量図」港区部分
公益財団法人三井文庫所蔵 一部加筆


 「寛永江戸全図」「明暦江戸大絵図」との大きな違いは新堀川(現在の古川)沿いの低湿地の開発である。ここは「増上寺之後之田」と呼ばれ、先述の赤坂築地と同様に承応二年(一六五三)から屋敷地の造成が始まったところであった。「明暦江戸大絵図」の段階では田圃の広がる未開発地のままであったが、「万治年間江戸測量図」では田圃が半減し、大名屋敷が形成されてきていることを見ることができる〈6-②〉。赤坂築地の方は、「明暦江戸大絵図」の段階で造成されていた区画が旗本屋敷で充塡(じゅうてん)されており、田畑はすでに消滅している〈6-③〉。また麻布の丘陵地帯についても全体的に密度が高まっており、都市化が進展していることがわかる。