寛文五枚図

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 最後に、初期江戸図の一つの到達点として、『寛文五枚図』と総称される五枚の木板図を取り上げたい。これは「万治年間江戸測量図」をもとに江戸全体を五分割して作成した木板の大絵図で、第一図を『新板江戸大絵図』、第二図~第五図を『新板江戸外絵図』と称する。第一図(縦一五六〇ミリメートル、横一六三五ミリメートル)は寛文一〇年(一六七〇)一二月刊で江戸中心部を、第二図(縦一〇〇五ミリメートル、横一九七五ミリメートル)は寛文一一年(一六七一)四月刊で深川・本庄(現在の東京都墨田区本所)・浅草を、第三図(縦一二五四ミリメートル、横一五七二ミリメートル)は同年一一月刊で浅草・染井(現在の東京都豊島区駒込)・小石川を、第四図(縦一三六五ミリメートル、横一三三七ミリメートル)は寛文一二年(一六七二)六月刊で小日向・牛込・四谷を、第五図(縦一四七〇ミリメートル、横一六一七ミリメートル)は寛文一三年(一六七三)二月刊で赤坂・麻布・芝筋をそれぞれ収録している。絵図には「間積(げんづも)り壱分にて五間のつもり」、すなわち五間=三二・五尺=三二五〇分(ぶ)の長さを一分(ぶ)の長さで表現するとあるので、すなわち図の縮尺は三二五〇分の一ということになる。
 この実測は「万治年間江戸測量図」をもとにしていると考えられるが、記載情報は簡略化され、屋敷地の境界線などは省略されている。一方で収録範囲はやや広く、高輪北部や白金、渋谷、本所、深川なども含まれている。作者として記載される遠近道印(おちこちどういん)は謎の人物とされてきたが、深井甚三の考証によって、越中富山藩の医師藤井半知であることが明らかにされた(深井 一九九〇)。江戸の全体図が複製容易な木板図で刊行されたことの意義は大きく、以後本図をもとにした江戸図が数多く生み出されていくことになる。
 『寛文五枚図』のうち港区域に関わる部分は第一図(図1-1-1-7)と第五図である(図1-1-1-8)。ここから読み取れる都市空間構造は「万治年間江戸測量図」とおおむね一致するが、ここでは今回新たに測量された領域である二本榎(現在の高輪一~三丁目、白金台二丁目)と白金について述べておこう(図1-1-1-9)。まず二本榎については寺町の形成が注目される〈9-①〉。「明暦江戸大絵図」の段階では往還沿いにいくつかの寺が点在している状況であったが、本図では寺院が増加し面的な寺町へと成長していることがわかる。白金については台町の町場が伸びており、連続性が増している。「茶屋所々にあり」という記載〈9-②〉は街道筋の町場としての性格をうかがわせる。

図1-1-1-7 『寛文五枚図』第一図
『新板江戸大絵図』国立国会図書館デジタルコレクションから転載

図1-1-1-8 『寛文五枚図』第五図
『新板江戸外絵図 赤坂、麻布、芝筋』国立国会図書館デジタルコレクションから転載

図1-1-1-9 『寛文五枚図』第五図 二本榎・白金部分
『新板江戸外絵図 赤坂、麻布、芝筋』国立国会図書館デジタルコレクションから転載 一部加筆