図1-1-2-3 「寛永江戸全図」芝・三田部分
臼杵市教育委員会所蔵 一部加筆
薩摩藩は名目上の上屋敷は外桜田においていたが、中屋敷はこの芝新馬場にあり、内々には上屋敷と唱えていたという。この屋敷は「寛永江戸全図」段階では周辺の屋敷地と似た規模であったが、その後拡充を続け、安政三年(一八五六)の調査時には二万一七八五坪にまで達している(「諸向地面取調書」一、国立公文書館内閣文庫所蔵)。徳島藩中屋敷は逆に縮小した例で、文政一〇年(一八二七)に西南側の四割ほどの敷地が召し上げられ、幕末の坪数は六六九一坪となっている(同一)。伊予松山藩中屋敷は拝領以来規模を維持しており、幕末の坪数は二万九九七坪であった(同三)。会津藩下屋敷は浄土宗相福寺を二本榎に移転させた跡地を拝領したもので、規模の変動は特に見られず、幕末の坪数は三万三二二二坪二合五勺あった(ほか地続きの抱屋敷が七五八坪あった)。久留米藩下屋敷については二章一節五項を参照されたい。