芝・三田

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 増上寺南側の芝・三田も大名屋敷が目立つ場所で、特に外様の大藩の屋敷が多い。「寛永江戸全図」(図1-1-1-4)芝・三田部分(図1-1-2-3)に見られる一〇万石以上の大名屋敷としては、薩摩藩島津家(七七万石)中屋敷〈3-①〉、熊本藩細川家(五四万石)下屋敷〈3-②〉、鳥取藩池田家(三二万五〇〇〇石)下屋敷〈3-③〉、徳島藩蜂須賀家(二五万七〇〇 〇石)下屋敷(のち中屋敷)〈3-④〉、久留米藩有馬家(二一万石)下屋敷〈3-⑤〉、土佐藩山内家下屋敷(二〇万二六〇〇石)下屋敷〈3-⑥〉、伊予松山藩松平家(親藩、一五万石)中屋敷〈3-⑦〉、高松藩松平家(親藩、一二万石)下屋敷〈3-⑧〉があった。またこれらより遅れて明暦四年(一六五八)五月一五日には会津藩(二三万石)の保科正之(ほしなまさゆき)が下屋敷を拝領している。これらのうち薩摩藩、久留米藩、徳島藩、伊予松山藩、会津藩の諸屋敷は拝領以来、幕末まで維持された。

図1-1-2-3 「寛永江戸全図」芝・三田部分
臼杵市教育委員会所蔵 一部加筆


 薩摩藩は名目上の上屋敷は外桜田においていたが、中屋敷はこの芝新馬場にあり、内々には上屋敷と唱えていたという。この屋敷は「寛永江戸全図」段階では周辺の屋敷地と似た規模であったが、その後拡充を続け、安政三年(一八五六)の調査時には二万一七八五坪にまで達している(「諸向地面取調書」一、国立公文書館内閣文庫所蔵)。徳島藩中屋敷は逆に縮小した例で、文政一〇年(一八二七)に西南側の四割ほどの敷地が召し上げられ、幕末の坪数は六六九一坪となっている(同一)。伊予松山藩中屋敷は拝領以来規模を維持しており、幕末の坪数は二万九九七坪であった(同三)。会津藩下屋敷は浄土宗相福寺を二本榎に移転させた跡地を拝領したもので、規模の変動は特に見られず、幕末の坪数は三万三二二二坪二合五勺あった(ほか地続きの抱屋敷が七五八坪あった)。久留米藩下屋敷については二章一節五項を参照されたい。