麻布

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 麻布は丘陵地帯で、多くの武家屋敷が形成された。この地域が絵図に描かれるのは「寛永江戸全図」(図1-1-2-6)以降になるが、それ以前で文字史料から判明する動きとしては、慶長(一五九六~一六一五)頃に旗本阿部忠吉(徒頭一五〇〇石)が麻布龍土(りゅうど)町(現在の六本木七丁目)に〈6-①〉、元和三年(一六一七)九月一一日に播磨(はりま)林田藩建部政長(たけべまさなが)(一万石)が麻布市兵衛(いちべえ)町(詳細位置不明)にそれぞれ下屋敷を拝領したのが早い例として挙げられる。盛岡藩南部家(一〇万石)も寛永二年(一六二五)に麻布本村(現在の南麻布一~三丁目、元麻布一~二丁目)の抱屋敷の一部を割譲したとされるが、「寛永江戸全図」では確認できない。
 これ以降、一〇万石以上の大身の大名に限定すると、寛永一三年(一六三六)三月二四日に長州藩毛利秀就(ひでなり)(松平長門守、三六万九〇〇〇石)が麻布龍土町に下屋敷〈6-②〉(二章一節三項参照)、寛永一四年(一六三七)九月一九日に米沢藩上杉定勝(弾正少弼(しょうひつ)、三〇万石)が麻布落合坂(麻布台一丁目)に下屋敷〈6-③〉をそれぞれ拝領した記録が残る。また拝領時期は判明しないが、「寛永江戸全図」には、麻布市兵衛町および麻布龍土町に佐賀藩鍋島勝茂(松平信濃守、三五万七〇〇〇石)下屋敷〈6-④・⑤〉、麻布三河台(みかわだい)町(現在の六本木三~四丁目)に越後高田藩松平光長(越後守、二五万石)下屋敷〈6-⑥〉、麻布市兵衛町に備後(びんご)福山藩水野勝成(かつなり)(日向守、一〇万石)下屋敷〈6-⑦〉を確認できる。上記のうち、旗本阿部家、盛岡藩、長州藩、米沢藩の各屋敷は、規模の変化はあるものの幕末まで維持されている。現在の港区立有栖川宮(ありすがわのみや)記念公園は盛岡藩下屋敷跡の一部、港区立檜町(ひのきちょう)公園は長州藩下屋敷の庭園の跡である(図1-1-2-7)。

図1-1-2-6 「寛永江戸全図」麻布・赤坂部分
臼杵市教育委員会所蔵 一部加筆


 「寛永江戸全図」で注目されるのは、麻布地区の特に南部において抱屋敷(絵図中で黒丸を付された屋敷)が多く見られる点である。先述のとおり、抱屋敷は武士が百姓地などを買得して屋敷化したものであり、都市部と農村部の境界部に多く発生した。

図 1-1-2-7 檜町公園