赤坂

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 前項で見たとおり、赤坂地区には『江戸庄図』の頃から「やかた町」が形成されていた。記録からは、元和六年(一六二〇)に広島藩浅野長晟(ながあきら)(但馬(たじま)守、四二万六五〇〇石)が、寛永九年(一六三二)七月二六日に紀州藩徳川頼宣(よりのぶ)(五五万五〇〇〇石)がそれぞれ下屋敷を拝領したという〈6-⑧・⑨〉。「寛永江戸全図」には、この両名以外の一〇万石以上の大身大名の屋敷として、尾張藩徳川家(六一万九五〇〇石)下屋敷〈6-⑩〉、福岡藩黒田家(松平右衛門佐、四三万三一〇〇石)下屋敷〈6-⑪〉、松代藩真田(さなだ)家(一三万五〇〇〇石)下屋敷〈6-⑫〉、盛岡藩南部家(一〇万石)下屋敷〈6-⑬〉が見える。
 以上の大身の大名屋敷のうち、紀州藩(二章一節二項参照)、福岡藩(二章四節一項参照)、松代藩の各屋敷は幕末まで維持された。広島藩下屋敷は元禄八年(一六九五)にいったん召し上げられるが、宝永(ほうえい)七年(一七一〇)に再度同地に拝領し、以後幕末まで存続した(二章四節一項参照)。尾張藩下屋敷はその後同藩附家老(つけがろう)竹腰家(美濃今尾(いまお)藩三万石)屋敷と千代姫(尾張藩徳川光友(みつとも)正室、三代将軍徳川家光長女)屋敷に分割される。前者はその後幕末まで維持されるが、後者については元禄一一年(一六九八)一二月一〇日に千代姫が亡くなると跡地が細分化され、その後黒鍬(くろくわ)組(江戸城内の土木工事や清掃・運搬などに従事した役職)の屋敷が多く形成されたことから黒鍬谷と称されるようになった。
 赤坂でもう一つ特筆すべきは、開発地としての赤坂築地である。前項のとおり、赤坂の谷間の低湿地は承応二年(一六五三)から幕臣の屋敷地としての造成が始まった。屋敷拝領の記事としては明暦三年(一六五七)三月一〇日に旗本日根野高当(源左衛門、書院番三〇〇俵)が(史料上は「麻布」と見える)、同年五月二七日に旗本土岐頼豊(ときよりとよ)(作右衛門、書院番二〇〇俵)と同土岐頼親(よりちか)(十左衛門、小性組三〇〇俵)について確認できるのが早い例である。この三人の屋敷については「明暦江戸大絵図」でも確認できる(図1-1-1-5〈5-⑧〉参照)。

図1-1-2-8 「万治年間江戸測量図」赤坂築地部分
公益財団法人三井文庫所蔵 一部加筆


 赤坂築地の開発は「万治年間江戸測量図」の段階ではほぼ完了しており(図1-1-2-8)、同図では人名の記載のある屋敷地は八〇筆を数えることができる。このうち七〇筆については「寛政重修諸家譜」(幕府が編纂した大名・旗本・御家人らの系図集。文化九年〈一八一二〉成立)によって拝領者を特定可能である。この中には一〇〇〇石を超える大身の旗本も五名いるが、中心になるのは二〇〇~五〇〇石程度の旗本層で、これが四九名を数え、家禄高の判明するなかの四分の三を超える。役職としては書院番や小性組などの番方(二章二節一項参照)が中心である。注目されるのは七〇名のうち三分の二弱の四六名が系譜上の初代に相当しているという点である。つまり彼らは旗本の次男以下として生まれ、その後幕府から新規に召し抱えられて分家を樹立した人物であった。それ以前の絵図では江戸の他地域で彼らの名前を確認できないことからすると、彼らはそれまで本家の屋敷を間借りしていたのが、この赤坂築地で初めて自分自身の屋敷を得られたということになろう。
 赤坂築地は明暦の大火(一六五七)後に開発が進んだため、ともすると復興事業の一産物として理解されがちである。しかし先述のように、そもそもこの地の開発計画は承応二年(一六五三)に立てられていたことを考え合わせても、これは大火以前からの課題であった、屋敷を持たない幕臣たちへの受け皿の提供が第一義であったとみるべきであろう。実際、明暦の大火の類焼地から赤坂築地に移転したことが確認できる例は、「明暦江戸大絵図」において虎ノ門内に屋敷が見える旗本筒井正信(織部、小性一二〇〇石)ただ一人に過ぎず、大火との直接の因果関係を見出すことは困難と言わざるを得ない。