青山

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 先述したとおり、青山では天正一八年(一五九〇)に青山忠成が徳川家康から広大な下屋敷を拝領していた。忠成の後、宗家を継いだ忠俊(ただとし)は老中にまで昇進したが、彼は三代将軍徳川家光の勘気をこうむり、寛永二年(一六二五)に改易される。このためこの屋敷地はいったん弟の幸成(よしなり)が継承したとみられる。その後寛永九年(一六三二)に忠俊は赦免され、嫡子宗俊(むねとし)が再び召し出されたため、以後は忠成時代の下屋敷のうち、矢倉沢往還(やぐらさわおうかん)(街道、現在の国道二四六号にあたる)を挟んだ北側が宗家、南側が幸成系青山家の屋敷として分割されたようである。両屋敷とも時代が下るにつれて規模はしだいに縮小していったが、中核部分については幕末まで維持された。
 その他、青山では慶安五年(一六五二)八月一四日に三代家光の三男長松(翌年元服して綱重(つなしげ))が下屋敷を拝領している(権田原(ごんだわら)屋敷)。この屋敷は、宝永元年(一七〇四)に綱重の息子綱豊(つなとよ)が五代将軍徳川綱吉(つなよし)の養子となった(家宣(いえのぶ)と改名)ことで収公され、以後は分割されて幕臣の屋敷地に転じている。