ここまでは、寛文期(一六六一~一六七三)頃までの港区域内各地における武家地の様相を概観してきたが、以下では個別事例として、大名家による屋敷地の獲得過程を追ってみたい。
まずは金行信輔の論考にもとづき、一七世紀前半における土佐高知藩山内(やまうち)家(二〇万二六〇〇石)の屋敷地の変遷を検討することにしよう(金行 二〇一八)。
同藩が最初に拝領した江戸屋敷は大名小路(現在の東京都千代田区丸の内)鍛冶橋(かじばし)門内における六〇間四方の上屋敷であり(現在の東京国際フォーラム敷地北側付近)、「慶長十三年江戸図」(東京都立中央図書館所蔵)にも描かれている。慶長九年(一六〇四)には小屋掛の状態であったとされ、その頃の拝領であったようである。当時の当主は初代一豊(かずとよ)であった。
このとき証人(人質)として江戸に居住していた家族は一豊の甥政豊一人であり、その後も元和二年(一六一六)に一人増えただけであったので、当初はこの一屋敷で賄えたとみられるが、元和九年(一六二三)に二代忠義の正室阿姫(くまひめ)、次男忠直、長女清姫が高知から江戸に移住するに及び、三六〇〇坪に過ぎない上屋敷のみではスペースに不足を生じることになる。そこで土佐藩は寛永四年(一六二七)に上屋敷の東南にある屋敷地(中屋敷)を拝領し、ここに嫡子忠豊を移す。そしてさらに翌年には郊外芝において一〇〇間四方の下屋敷(図1-1-2-3〈3-⑥〉)を拝領している。寛永八年(一六三一)、忠豊は中屋敷から下屋敷に転居し、正室の長姫をここに迎えた。
この土佐藩の例に見られるように、当初は大名当主と証人の居住の場として想定されていた江戸屋敷は、大名妻子の移住によって拡張を迫られていく。芝や麻布はその恰好(かっこう)の受け皿として寛永期(一六二四~一六四四)に大名屋敷の形成が進展したのである。