外様の大藩である徳島藩は近世初期において、江戸城に程近い大名小路に上屋敷(現在の東京駅丸の内北口駅前広場付近)、その南東に中屋敷と土手屋敷(現在の東京駅ホーム南側付近)、三田に下屋敷(図1-1-2-3〈3-④〉)を拝領していた。ところがこのうち上・中・土手屋敷は明暦三年(一六五七)の明暦の大火で類焼し、同藩は江戸の四屋敷のうち三屋敷を失うという緊急事態に見舞われる。屋敷の再建には避難場所の確保が求められ、このような火災はいつまた起きてもおかしくないことから(実際、万治四年〈一六六一〉正月の大火でこの三屋敷は再び焼失している)、同藩は郊外に下屋敷を獲得すべく運動を開始する。当時の当主は三代光隆である。
徳島藩は寛文元年(一六六一)六月に老中久世広之と内々に相談し、目黒道(現在の目黒通り)沿いの地所(図1-1-1-9〈9-③〉)を拝領の第一希望、白金の熊本藩下屋敷〈9-④〉近所を第二希望として伝えている(のち後者を第一希望に変更)。ここからは、この時期の下屋敷下賜が幕府による一方的なものではなく、大名側の希望を反映したものであったことがうかがえる。しかしそれは裏を返せば、屋敷地の獲得は徳島藩以外の藩との競合となることをも意味する。実際、第一希望の地所には福山藩水野家(一〇万一〇〇〇石)、第二希望の地所には福井藩松平家(四五万石)の「望杭(のぞみくい)」、つまり拝領の意思表示としての杭がすでに打たれていた。ただし拝領者の決定は先着順ではなく、各大名家の事情を総合的に勘案した上でなされたとみられる。結果、内談の三年半後の寛文四年(一六六四)一二月に、徳島藩は当初の第一希望であった目黒道沿いの地所〈9-③〉の拝領を認められるのである。
このとき拝領した屋敷の規模は百間四方の一万坪で、これは徳島藩の希望に比して小規模であった。そのため同藩では拝領した屋敷の周辺の百姓地を買得し、抱屋敷として抱え込むことで坪数の不足を補っている。実際、「御府内場末往還其外沿革図書」(江戸幕府普請奉行役所が編纂した江戸の変遷図集)を見ると、矩形の拝領屋敷の周囲と町並部分に抱屋敷の記載を見ることができる(図1-1-2-9)。
このように、港区域を含む江戸の郊外地は、各大名の希望にもとづいて順次屋敷地として切り取られていき、拝領地と抱屋敷とがモザイク状に展開していくことになったのである。
(岩本 馨)
図1-1-2-9 延宝年間の蜂須賀家(松平阿波守)下屋敷周辺図(部分)
「御府内場末往還其外沿革図書」16(中)国立国会図書館デジタルコレクションから転載 一部加筆