寺社地とその類型

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 近世都市における寺院・神社の領域を寺社地という。江戸では面積比で一五パーセントほどを占めていた(宮崎 一九九二)。
 江戸の寺社をまず空間構成の面から見ると、大きくは境内型・寺町(てらまち)型・町寺(まちでら)型の三つに類型化できる(伊藤 一九九二)。まず境内型は寺院を中核に門前、子院などを付属するもので、江戸では浅草寺、寛永寺、増上寺などの大寺院がこれに相当する。次に寺町型は特定の領域内に多数の寺社が集合するもので、特に周縁部に多く形成された。港区域では、後述する三田寺町(現在の三田四丁目)、赤坂寺町(現在の赤坂五・七丁目)などがこれに相当する。最後に町寺型は町中に散在する寺院のことをいい、一般には真宗(浄土真宗、一向宗)寺院に見られる。
 次に土地の面から見ると、所有関係として寺社が自ら所持する所持地と、他寺社の境内や組屋敷などを借りる借地とに分けられる。年貢負担としては、武家地同様に幕府から与えられた拝領地、年貢を免除された除地(じょち)(「よけち」とも読む)、百姓地同様に年貢を負担した年貢地に分けられる(金行 二〇〇二)。
 さらに成立時期の面からは、寛永八年(一六三一)以前に起立した古跡寺社と、寛永九年(一六三二)以降に起立した新地寺社に分けることができ、後者は幕府の政策として破却が進められた。古跡寺社も、本来の境内である古跡地のみに家作が認められ、後に寺社が取得した土地(添地)へは墓地の形成のみが出願により許された(金行 二〇〇二)。
 時代は下るが、文政八~一一年(一八二五~一八二八)における幕府による御府内の寺社調査である「寺社書上」(国立国会図書館所蔵)に掲載される寺社は一一六四か所(郭外のみ、神社の別当寺〈神社を管理した寺院〉も含む)で、うち現在の港区域の寺社は三一一か所(別当寺を除くと二七四か所)である。宗派としては浄土宗六七か寺、真宗五七か寺、曹洞宗四二か寺、日蓮宗(法華宗)三九か寺の順に多い。地域ごとに見ると、領域の広さに差があるので単純には比較はできないものの、麻布、三田、芝の順に多く分布しており、この三地域で一九七か寺を数える。
 近世の寺社はしばしば移転したが、「寺社書上」から港区域内に境内地を定めた年代が判明する二五一か所の寺社のうち、一七世紀中に定着したものは九割の二二六か所で、寛文期(一六六一~一六七三)までに限ると八割弱の一九七か所になる。そこで、寺社の移動がおおむね落ち着いてくる寛文期あたりまでの寺社地の形成過程を、以下では見ていくことにしたい。なお寺社の履歴については、特に記載のない限りは「寺社書上」に拠る。