中世以前からの寺社

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 すでに第一巻で述べたように、武蔵国の交通の要地にあたっていた江戸は、徳川家康の入国以前から一定の都市化を遂げており、港区域にも少なからぬ寺社が立地していた。
 まず区内で最も古い寺院の一つとされるのが、麻布の善福寺(真宗西派、現在の浄土真宗本願寺派)である(図1-1-3-1)。同寺は弘法大師空海(七七四~八三五)の開創伝承をもつ元真言宗寺院で、その後、住持(じゅうじ)(住職)了海(りょうかい)(一二一三~一三〇六)が親鸞(しんらん)の弟子となって真宗に改宗し、同宗の関東での拠点となったという。「寛永江戸全図」には善福寺の境内が描かれているが(「全福寺」と記載)、その南北に阿佐布(麻布、絵図の表記は「浅布」)村の集落らしき茅葺(かやぶき)屋根の描写が見える(図1-1-3-2)。ここからは、善福寺を核としてその周辺に集落が形成されていた中世の景観の名残を読み取ることができる。

図 1-1-3-1 善福寺と地中

図1-1-3-2 「寛永江戸全図」善福寺と麻布村
臼杵市教育委員会所蔵


 善福寺は、徳川家康入府後の天正一九年(一五九一)一一月に、阿佐布郷にて朱印地一〇石を安堵された(のち元禄一二年〈一六九九〉に荏原郡六郷領女塚(おんなづか)村に替地)。境内は拝領地で、総坪数は一万七七七〇坪余である。門前町屋は、まず慶安五年(承応元・一六五二)に善福寺門前元町(現在の麻布十番三丁目)と同東町(現在の南麻布一丁目)が起立し(後者の一部は元禄一一年〈一六九八〉に新堀用地に召し上げられ、三田に代地を与えられる〈善福寺門前代地町〔現在の三田五丁目〕〉)、ついで宝永七年(一七一〇)には同西町(現在の元麻布一丁目)が起立し、同東町の門前町屋追加が認められた。これら門前町屋はいずれも延享二年(一七四五)一二月に町奉行支配に移行している(四章三節四項参照)。善福寺は境内に地中(じちゅう)(境内寺院)一三寺のほか多くの末寺を抱えていたが、詳細については三章二節を参照されたい。
 芝の西応寺(さいおうじ)(浄土宗)も中世以来の古刹である。寺伝によれば応安元年(一三六八)に明賢(めいけん)が開いたとされる。善福寺と同様、天正一九年(一五九一)一一月に芝と飯倉にて朱印地一〇石を安堵された(のち一部を荏原郡に替地)。境内は拝領地で、総坪数は九〇一八坪二合(ごう)七勺(しゃく)二才(さい)である。西応寺境内拝領地内に町屋が起立されたのは慶長一一年(一六〇六)のことで(「町方書上」は翌年とする)、寛文二年(一六六二)に寺社奉行支配から町奉行支配に移管されて、芝西応寺町(現在の芝一~二丁目)と称した。境内には寮舎三寺があり、末寺八寺を抱える。末寺のうち、近隣の本芝法音寺(ほうおんじ)・宗光寺・源光寺の三寺はいずれも文明(ぶんめい)一二年(一四八〇)の起立である。
 ほかの古刹として、建長五年(一二五三)三月に足立郡(現在の埼玉県鴻巣市から東京都足立区までの地域)に開基し正応五年(一二九二)に現在地(芝一丁目)に移転した芝勧勝寺(かんしょうじ)(真宗東派、現在の真宗大谷派)、文亀(ぶんき)三年(一五〇三)起立の赤坂淨土寺(浄土宗)、永正(えいしょう)年中(一五〇四~一五二一)中興とされる下高輪安泰寺(天台宗)などが一六世紀前半までに定着した寺院である。
 区内の古社としては、まず延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)に記載される荏原郡薭田(ひえだ)神社の論社(ろんしゃ)(後裔社の候補とされる神社)の一つである三田八幡宮(現在の御田(みた)八幡神社)が挙げられる(図1-1-3-3)。社伝によれば和銅(わどう)二年(七〇九)八月の創建とされ、のち寛弘(かんこう)八年(一〇一一)に久保三田に遷座(せんざ)(神体を他の場所に移すこと)、さらに寛永五年(一六二八)に現在地に移転したという。この寛永の移転のさいに別当寺天台宗宝蔵寺(のち無量院)と、門前町屋が起立している。

図 1-1-3-3 御田八幡神社


 そのほかの古社として、白鳳(はくほう)年間(七世紀後半)の創建と伝える白金氷川明神、天暦(てんりゃく)五年(九五一)創建と伝える赤坂氷川社、寛弘年中(一〇〇四~一〇一二)創建と伝える芝神明宮(飯倉神明宮、現在の芝大神宮)、西久保八幡宮などがある。赤坂氷川社は現在赤坂六丁目にあるが、享保(きょうほう)一四年(一七二九)までは赤坂一ツ木村(現在の赤坂四丁目)にあったという(三章四節参照 遷座後は旅所(たびしょ)となる)。