近世触頭寺院の成立

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 近世に入ると港区域にも近世仏教各宗派の拠点となる触頭(ふれがしら)寺院(後述)がいくつか移転・成立する。このうち最大規模のものが浄土宗の芝増上寺である。同寺の起源は古く、もとは真言宗寺院で光明寺といったが、明徳四年(一三九三)に増上寺と改め、浄土宗寺院となった。中世には麴町貝塚(紀尾井坂付近)にあったとされ、徳川家康入国後日比谷に移転したともいわれるが、慶長三年(一五九八)に現在地の芝に移転し、大伽藍が造営されることとなる(伊坂 二〇一三)。増上寺は徳川家の菩提寺とされたため幕府の庇護を受け、最盛期の境内は二一万坪、寺領一万七四五石、坊中・別当・別院総数五〇か寺ほどを誇った。詳細については三章三節を参照されたい。
 このほか港区域内の各宗派触頭寺院の成立年代を記すと以下のようになる。
 新義真言宗では愛宕下の円福寺(愛宕権現社別当)が慶長八年(一六〇三)に、真福寺が同一〇年(一六〇五)に成立している。
 臨済宗五山派では金地院(こんちいん)が元和五年(一六一九)に創建され、寛永一六年(一六三九)に芝の現在地(芝公園三丁目)に移転した。臨済宗妙心寺派では東禅寺が慶長一五年(一六一〇)に溜池上に寺地を拝領したが(図1-1-1-2〈2-⑨〉)、寛永一三年(一六三六)に下高輪村の現在地に替地となった。
 曹洞宗では江戸三か寺のうち青松寺(せいしょうじ)と泉岳寺が区域内に立地する。青松寺は文明八年(一四七六)に太田道灌が城西に創建したといわれ、慶長五年(一六〇〇)に現在地の愛宕下(愛宕二丁目)に移転した。泉岳寺は慶長七年(一六〇二)に外桜田にて寺地を拝領したが(図1-1-1-2〈2-⑧〉)、寛永一八年(一六四一)に類焼し現在地の芝(高輪二丁目)に移転した。このほか関三刹(かんさんさつ)(関東の曹洞宗の三寺)の一つ下野大中寺(しもつけだいちゅうじ)は寛文年中(一六六一~一六七三)に久保三田に宿寺を設けている。
 黄檗(おうばく)宗では瑞聖寺(ずいしょうじ)が寛文一一年(一六七一)に白金の現在地(白金台三丁目)にて起立している。
 真宗高田派では澄泉寺(ちょうせんじ)が元和元年(一六一五)に桜田に起立したが、寛永三年(一六二六)に御用地に収公されたため麻布の現在地(赤坂一丁目)に移転している。
 日蓮宗本門寺派では正安元年(一二九九)に起立したとされる承教寺(じょうきょうじ)が承応二年(一六五三)に西久保から二本榎の現在地(高輪二丁目)に、天正二年(一五七四)起立の朗惺寺(ろうしょうじ)が明暦三年(一六五七)に八丁堀から二本榎(現在の高輪三丁目、明治四三年に品川区小山に移転)にそれぞれ移転している。日蓮宗本成寺(ほんじょうじ)派では文禄元年(一五九二)に日比谷に起立した長応寺(ちょうおうじ)が竹川町・八丁堀を経て寛永一二年(一六三五)に芝伊皿子(いさらご)に移転した(現在の高輪二丁目、明治四〇年に東京都品川区小山に移転)。
 なお古義真言宗では高野山学侶方(がくりょかた)が慶安二年(一六四九)以来浅草日輪寺境内を借りて江戸参勤時の拠点としていたが、明暦元年(一六五五)に二本榎に在番屋敷を拝領している(現在の高野山東京別院)。
 近世の触頭制度についての詳細は三章二節四項を参照されたい。